風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

言うだけで、実行できない者を、なお、愛し、あわれんで

 主が命じられた道をひたすら歩みなさい。
そうすれば、
あなたたちが得る土地に長く生きる。
申命記5:33

 イエスはファリサイ人に
「律法には何とあるか」と言われた。

 彼は答えた。
「心、精神、力、思いを尽くして、
主なる神を愛し、
隣人を愛しなさい。」

 イエスは言われた。
「正しい答えだ。
実行すれば命が得られる。」
ルカ10:26~28

 ロマ書11:25~32
 ヨハネ9:24~34(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/9;木)

 主が命じられた道をひたすら歩む。
知っているだけではなく、
実行する。
自分の力で。

 そのような生き方を
「律法的生き方」と言うのだそうですね。

 けれども、
神が満足なさるレベルまで実行出来た人は
いないのだそうです(ロマ3:10~12)。

 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方は、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と仰られて、

 「われわれ」、
〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において
自分の思いが成ることをではなく、
相手の思いが成ることを願い(ヨハネ6:38)、
自由意思で
自発的に
思いを同じくし、
心を一つにし、
行動を一つにし、
存在を一つにしていらっしゃる、

 その一つに、
愛と尊敬において、
自由意思で
自発的に加わる者が欲しいと願われて
私たち人間を造られたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
その、造られた場にとどますことを善してしないで、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになる道を選んだのだそうです。

 そして、このアダムとエバの子孫である私たち人間は、
この、創造の目的からずれた、
「的外れ」の性質を受け継いで生まれて来ているのだそうです。

 それで、
神のことばを守り、いい人間になることにおいても、
神と心を一つにしていく方向ではなく、
天の神、主と対立、対抗して、
神のようになり、神の上に立つ者になろうとするのだそうです。

 イエスが話された、
「宮に祈りに行ったパリサイ人」のように、
「神よ。
私はほかの人々のようにゆする者、
不正な者、
姦淫する者ではなく、
ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、
自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:10~12新改訳)と
誇り高く、胸を張って、神に言うことができる者に。

 「イスラエルの人々は、
義の律法を追い求めながら、
その律法に到達しませんでした。
信仰によって追い求めることをしないで、
行いによるかのように追い求めたからです」(ロマ9:31~32)。

 けれども、神は御自分の民を退けてしまわれたのではありません。
イスラエル人の一部がかたくなになったのは、
私たち異邦人の完成が成るときまでであり、
イスラエルはみな救われるのだそうです。

 神の賜物と召命とは変わることがありません。
私たちが、かつては不従順であったが、
今は、彼らの不従順のゆえに、憐れみを受けているのと同様に、
彼らも、今は不従順になっていますが、
それは、私たちが受けたあわれみによって、
今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです(ロマ11:25~31)。

 そして、天の神、主は、
その豊かな憐れみによって、
主の御名を呼び求める者の、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせて、
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に
もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、
心に、〔父である神〕の御思いを置き、書き付けてくださり、
受け入れる者がご自身と思いを同じくし、
心を一つにして、
〔父である神〕がしようと思われることをしていくようにしてくださるのだそうです。

 「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、
昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、
何も出来ないはずです」(ヨハネ9:22~23)
と言われるような業を。
今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)