風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

 自分の「的外れ」の存在を認め、言い表していくなら

 あなたに背いたことを

私は知っています。

私の罪は

常に私の前に置かれています。詩51:5

 

 自分の罪を公に言い表すなら、

神は真実で正しい方ですから、

罪を赦し、

あらゆる不義から

私たちを清めてくださいます。Ⅰヨハネ1:9

 

 イザヤ書57:15~19

 Ⅰヨハネ3:19~24(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/25;土)

 

 私たちは、自分の実態、

 

天の神、主から、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」創世記1:26)、

 

 「あなた(父である神)がわたし(御子イエス)におられ、

わたし(御子イエス)があなた(父である神)にいるように、

彼らもわたしたちにおるように。

わたしたちが一つであるように、

彼らも(わたしたちと)一つであるように(ヨハネ17:21~22)、

と願われて造られていながら、

 

 その神とのひとつの場にとどまることをしないで、

もっと偉い者になろうとして、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」(創世記3:5、22)ようになって、

創造の目的からずれた、「的外れ」になっている実態を知るのですね。

 

 それを言い表していくとき、

その私たちの「的外れ」の責任を全部、イエスが負ってくださっていて、

エスが受けてくださった十字架刑での処刑で、

私たちの「的外れ」になっている

〔生まれたときからの私〕という霊を処刑済み、

死んだものとしていてくださるのが分かるのだそうです。

 

 そのうえで、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、

私たちの心に、

〔父である神〕の御思いを置いてくださるので、

私たちのうちに〔父である神〕の御思いがあるようになり、

受け入れる者は、〔父である神〕と一つ心になって、

不義でない、

あるべき、正しい在り方を生きるようにしてくださるのだそうです。

 

 イザヤ書に書かれてあるように。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、

その名を聖ととなえられる方が、

こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、

心砕かれて、へりくだった人とともに住む。

へりくだった人の霊を生かし、

砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、

いつも怒ってはいない。

わたしから出る霊と、

わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、

わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。

しかし、彼はなおそむいて、

自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。

わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、

慰めを報いよう。

わたしは唇の実を創造した者。

平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。

わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる(イザヤ57:15~19新改訳)。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

御子イエス・キリストの御名に信頼し、

互いに愛し合う(Ⅰヨハネ3:23)、

〔父である神〕の御思いを私たちの心に置いてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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