ヨシュアは地にひれ伏して拝し、 彼(主の軍の将軍)に、 「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」 と言った。ヨシュア記5:14
あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。マタイ13:16
エフェソ書1:3~10 創世記9:1~17(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句1/17;木)
苦難の中から主を呼び求め、 私の神に向かって叫ぶと、 叫びは御前に至り、 御耳に届く。詩18:7
イエスは二人の盲人の目に触り、 「あなたがたの信じているとおりになるように」 と言われると、 二人の目が見えるようになった。マタイ9:29~30
コロサイ書2:1~7 創世記9:18~29(通読箇所) (ローズンゲン日々聖句1/18;金)
そのとき、イスラエルの民は、 モーセの後を継いだヨシュアにひきいられ
ヨルダン川を渡り、 エリコに向かっていたのですね。
すると、抜き身の剣をもって立っている人がいたのだそうです。 ヨシュアは、その方が、 神である主の軍の将として来られた方だと知って、 このように、 「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」 と問うたのだそうです。
そして、告げられたとおりに、 六日間、毎日、エリコの町の回りを声を出さないで1回、回り、 七日目には、7度回って、 祭司が鳴らす角笛の音に合わせてときの声をあげると、 エリコの城壁は内側に崩れ落ちたのだそうです。
イエスが道を通って行かれると、二人の盲人が大声で、 「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」 と叫びながらついて来たのだそうです。 イエスが家に入られると、その家の中にまで。
イエスが、「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、 彼らは、「そうです。主よ」と答えたのだそうです。
イエスこそ、 イザヤ書35:4~6に 「神は来て、あなたがたを救われる。 そのとき、目の見えない者の目は開き、 耳の聞こえない者の耳はあく。 そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、 口のきけない者の舌は喜び歌う」と書かれている、 その「ダビデの子(子孫)」であると。
だから、イエスは目の見えない私たちを見えるようにしてくださる、と。
そして、イエスが「あなたがたの信じているとおりになるように」 と言われると、そのとおりがふたりになった、というのですね。 苦難の中からの呼び求めに答えて。
このイエスの出来事は、 多くの預言者や義人たちが見たいと切に願っていたことなのだそうです。
神はイエスにあって、 天にあるすべての霊的祝福をもって 私たちを祝福していてくださるのだそうです。
私たちを世界の基の置かれる前からイエスにあって選び、 御前で聖く、傷のない者にしようとされ、 みむねとみこころのままに、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、 愛をもってあらかじめ定め、 イエスにあって、イエスの血による贖(あがな)い、 罪、「的外れ」の赦しを受けるようにしてくださっているのだそうです(エペソ1:3~7)。
イエスを、自分の主、救い主キリストとして受け入れ、 イエスが派遣してくださる 〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる 〔父である神〕の御思いの中を生きる、 キリストの中に根ざし、 建てられる人生を歩むようにしていただけるのだそうですから(コロサイ2:6)。
今、私たちは幸いなのですね。 そのことを見、体験できるのですから。
今日も。
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