風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

命の光の中へと。暗闇を後にして

神に従う人の道は輝き出る光、
進むほどに光は増し、
真昼の輝きとなる。
箴言418

 

 イエスの言葉:
わたしは世の光である。
わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、
命の光を持つ。
ヨハネ8:12

 

 ルカ5:33~39
 サムエル記上4:12~22(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/5;火)


 義とは、神と心を一つにすることのようです。
神と心を一つにして、
神の御心に従って生きる生き方は、
輝き出るあけぼのの光よう。
進むほどに、いよいよ光を増し、
真昼の太陽の輝きのようになるのだそうです。

 

 イエスは、この世にあっても光そのものなのですね。
〔父である神〕のことばの位置におられる方(ヨハネ1:1~5)、
〔父である神〕の御思いの現れ、顕現そのものであられる方、
なのだそうですから。

 

 イエスは言われました。
「わたしは自分からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話している」(ヨハネ8:28)。

 

 「自分の心を行なうのではなく、
わたしを遣わした方のみこころを行なっている」(ヨハネ6:38)。

 

 だから、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:29)、と。


 天の神、主の、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、
(わたしたちと)一つになる」(ヨハネ17:21~23)者を、
との願いで造られていながら、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ように
なっている(創世記3:22)私たち。

 

 天の神、主は、
その、「的外れ」になっている、
私自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合体させ、
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスを通して、
受け入れる者に来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。

 

 その方が、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを
私たちの心に置いてくださるのだそうです。

 

 それで、受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いがあるようになり、
私たちは、
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであると認めて、
天の神、主の御前に、光の中に投げ捨てながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来た
〔父である神〕の御思いによって生きるようにしていただけるのだそうです。

 

 イエスのように、
「自分の心を行なうのではなく、
〔父である神〕のみこころを行なう」者に。

 

 イスラエルの民が、
ペリシテ人との戦いで負けそうになったとき、
神に聞かず、
自分たちの理性の判断で、戦場に神の箱を持ち出し、
かえって、それがペリシテ人を奮い立たせることになり、
大敗北を喫することになった(Ⅰサムエル4:12~22)ような、
「的外れ」になっている、
自分の理性による善悪の判断の暗闇ではなく、

 いのちの光、
神の御心の中を歩む者に。

 

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れて」(ルカ5:38)。
いよいよ、光である神の御前に進み出て。

今日も。

 

 

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