風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私も世界に対して十字架につけられて

 あなたは多数者に追随して、
悪を行なってはならない。
出エジプト記23:2

 兄弟としていつも愛し合いなさい。ヘブル書13:1

 

 ガラテヤ書6:(11~13)14~18
 サムエル記上25:1~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/30;土)


 私たちは、
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方によって
造られたものなのですね。

 

 「われわれのかたちとして、
われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれて。

 

 イエスが言われているように、
「それは、父よ、
あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、

 

 私たちが一つであるように、
彼らも(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~22)ように、と。

 けれども、私たち、
その造られた場所にとどまらないで、
もっと素晴らしい者になろうとし、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」(創世記3:5、22)ようになって、
「的外れ」になっているのですね。

 

 それで、私たちは人の評判、人から受ける評価を気にし、

多数者に追随し、
あるいは、権力者の側に立って
不当な証言をしてしまうのですね。

 

 また、周りの人とも対立、対抗し、
あるいは無視して、顧みようとしないのですね。

 

 〔父である神〕は、
その、「的外れ」になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの受けてくださった十字架刑での死刑に合体させて、
処刑済みのもの、
死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 世界は私に対して十字架につけられ、
私も世界に対して十字架につけられた者に(ガラテヤ6:14)。

 

 そして、墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
〔父である神〕の右の座に復帰されたイエス

 

 そのイエスを通して、受け入れる者に来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方は、受け入れる者のうちに住んでくださり、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださるのでそうです。

 それで、受け入れる者は、
部分的であったり、不完全ではありますが、
〔父である神〕と心を一つにしていただけるのだそうです。

 ナバルのような頑迷な、よこしまで愚かな心から、
アビガイルのように聡明な心に(Ⅰ列王25:1~17)。


人の評価を気にしないで、正しい証言をし、
兄弟としていつも愛し合う心にも。

今日も。

 

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