私たちは神の前に身をかがめ、 私たちの旅の無事を祈ることにした。エズラ記8:21
イエスは言われた。 「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、 だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14:6
ルカ24:1~12 ロマ書13:8~14(通読箇所) (ローズンゲン日々聖句4/27;土)
ペルシャの王、アルタシャスタの時代、 バビロンからエルサレムに帰る旅に出発しようとするときに、 エズラは、まず、皆を集め、 断食を布告し、神の前でへりくだり、 道中の無事を神に願い求めたのだそうです。
エズラは、 道中の敵から助けてもらうための部隊と騎兵たちを アルタシャスタ王に求めるのを恥じたのだそうです。
かつて王に、 「私たちの神の御手は、 神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、 その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る」 と言っていたので。
神の御国への旅も、 イエスが「道であり、真理であり、いのちであるわたしを通してでなければ、 だれひとり父のみもとに、神の国に来ることはありません」と言われているとおりに、 イエスを通してでなければだれひとり、 御国に到達することはできないのだそうです。
十字架刑で処刑され、 アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたイエス。
その三日目、週の初めの日、日曜日の明け方早く、 準備しておいた香料を持って墓に着いた女たち、 マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤとほかの女たち。
見ると、墓の石が墓からわきにころがしてあって、 主イエスのからだはなく、途方にくれていたのだそうです。
すると、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、 彼女たちの近くに来て言ったのだそうです。 「あなたがたは、なぜ、生きている方を死人の中で捜すのですか。 ここにはおられません。 よみがえられたのです。 まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、 十字架につけられ、 三日目によみがえらなければならない、 と言われたでしょう」(ルカ24:1~8)、と。
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑で、 「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、 「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊を 処刑済み、死んだものとしていただかなければ、 私たちに【聖である霊】と呼ばれる方が来てくださることはできず、
この方が来てくださらなければ、 私たちが【父である神】と 思いを同じくし、心を一つにすることは不可能なのですね。
「神の国」は、【父である神】、【御子である神】イエスと 心を一つにしている者がいるところで(ヨハネ12:26)、
この血肉のからだを御霊のからだに変えていただいた者だけが 入るところなのだそうですから(Ⅰコリント15:35~54)。
だから、イエスを通して出なければ、 【父】のもとに行くことはできないのですね。
私たちは、十字架刑での処刑を受けてくださり、 死んで葬られ、 三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、 天の父である神の右の座に復帰されたイエスを通して来てくださる 【聖である霊】と呼ばれる方によって、 【父である神】の御思いが心にある者にしていただき、 【父である神】の御思いを わが思いとして生きて行くようにしていただけるのだそうです。
互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても何の借りもなく、 隣にいる人を自分自身のように愛する思いを心に置いていただいて。
夜はふけて、昼が近づいているのだそうです。 【父である神】は私たちにも、 闇のわざ、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみをイエスの中に打ち捨てて、 昼間らしい、正しい生き方、 主イエス・キリストを着る生き方、 神の国の生き方を与えてくださるのだそうですから。
今日も。
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