風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ご自身の民の背きのゆえに、生ける者の地から断たれた方が

わたしの民の背きのゆえに、
(主のしもべ)が神の手にかかり、
命ある者の地から断たれた。
イザヤ書53:8

 

 あなたがたは、
気力を失い疲れ果ててしまわないように、
御自分に対する罪人たちの反抗を
忍耐された方のことを、
よく考えなさい。
ヘブル書12:3

 

 Ⅰコリント9:16~23
 マタイ11:1~19(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句8/22;木)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
直接的にはイスラエルの人々のことですが、
広い意味ではイエスにあって私たちのことも、
「わたしの民」と思っていてくださるのですね。

 

 そして、「彼」、
やがて現れるイエスが、
私たちの、神に対する背き、反逆の責任を負って、
神の処刑を受けてくださることになる、と。

 

 イエスは、
御自分に対する私たちの反抗を耐え忍んでくださったのですね。

 

 そして、イエス使徒パウロは、
このイエスによる救いを一人でも多くの人に伝え、
その人がこの救いを受け取ることができるようにと、
すべての人の奴隷になった、と。

 律法の下にある人には、律法の下にある者のように、
律法と持たない人々に対しては、
律法を持たない人のようになり、
弱い人には弱い人になり、
すべての人に、すべての者となって。

 すべてのことを、
この福音のためにしている(Ⅰコリント9:19~23)、と。

 

 自分の信仰を主張するのではなく、
どうすれば相手の人がこの福音を受け入れてくれるか、
ということを優先している、ということでしょうか。

 

 イエスも、自分の心を行うことはしないで、
遣わした方の御心を行い(ヨハネ6:38)、

預言の言葉のとおりに、
目に見えない者が見、
足のなえた者が歩き、
ツァラート
ハンセン病のような、当時、治療方法のない伝染性の重い皮膚病)
に冒されたものがきよめられ、
耳の聞こえない者が聞き、
死人が生き返り、
貧しい者たちに福音が宣べ伝えられる、ように
なさったのですね(マタイ11:5)。

 

 私たちも、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、
〔生まれたときからの私〕という霊から出てくる思いは、
エスの十字架刑での処刑に合わせられて
処刑された者、死んだものから出て来た思いであると認めて、
これをイエスの御前にかなぐり捨てながら、

 新しい霊のからだに復活し、
天の、【父である神】の右の座に復帰なさったイエスが派遣してくださる、
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いによって歩ませていただけるのだそうですね。。
今日も。

 

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