風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自分のくちびるを制するには

言葉が多ければ、とがを免れない。
自分のくちびるを制する者は知恵がある。
箴言10:19(口語訳)


 私たちは舌で、父である神を賛美し、
また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。
私の兄弟たち、
このようなことがあってはなりません。
ヤコブ書3:9~10

 

 Ⅱコリント6:1~10
 マタイ24:1~14(通読箇所)
  (ローズンゲン日々聖句11/15;金)


 私たち、霊の思いが心に来て心の思いとなり、
心の思いが言葉となって口から出て来るようです。

 

 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」名乗られる方から、
「さあ人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」と願われて造られた人間(創世記1:26)。
 

 【父である神】、【御子である神】、【聖である霊】と呼ばれる神が、
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
ギリシャ神話の神々のように対立、対抗するのではなく、

 機械的にでもなく、「ねばならないから」でもなく、
愛と尊敬において、自由意思で、
まるで一人でもあるかのように一つになっておられる、
その、愛と自由意思による一つの中に加わる者をと願われて造られているのですね。
私たち人間は。

 

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
神によって造られたその神との一つの場に留まることを善しとせず、
もっと素晴らしい者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」道を選んだのだそうです(創世記3:5、22)。

 

 神に対立、対抗して、
自分一人の理性の判断で善悪を決定する者に。
神の創造の目的から「的外れ」の存在に。

 

 そして、私たちアダムとイブの子孫は、
生まれたときからこの「的の外れた」存在として生まれてきているのだそうです。

 

 それで、この、「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、
「的外れ」の〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
自分を神のひとりのようにしようという思いであり、
神に背く思いなのですね。
だから、口から出て来る言葉は「背き」の言葉であり、咎を負うもののようです。

 

 2000年ほど前のこと、
【御子である神】が、
【父である神】のご計画のとおりに人間イエスとなって人の世に来てくださり、
およそ33歳のころ、
神に呪われた者となって(申命記21:23)、
エルサレム城外で十字架刑での処刑を受けられました。

 

 【父である神】は、
私たちの、〔生まれたときからの私〕という霊を、
このイエスの十字架刑での死に合体させて、
処刑が終わったいる者、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 【父である神】は、さらに墓に葬られたこのイエスを、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、
神の国のことを語らせたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、天に上げられ、
ご自身の右の座に復帰させなさったのだそうです。

 

 そして、このイエスを通して、もう一人の方、
【聖である霊】と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、
この方によって私たちの心にご自身の御思いを置き、
受け入れる者の心にご自身の御思いがあるようにし、
受け入れる者がご自身と心と思いを一つにする者としてくださるのだそうです。
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)


 それで、私たちのうちには、
この、死んだものとされた〔生まれたときからの私〕という霊と
エスを通して来てくださる【聖である霊】と呼ばれる方がおられることになって、
それぞれの霊から来る思いが口から出て来ることにもなり、
一つの口から、【聖である霊】から来る神を賛美する言葉と
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、
神にかたどって造られた隣の人を呪う言葉が出て来ることにもなるようです。

 

 だから、私たちは、
この〔生まれたときからの私〕という霊から出て来た思いは、
死んだものから出て来たものと認めてイエスの御前に差し出し、
見ていただき、受け取ってもらいながら、
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いのほうで生きるのですね。


 【父である神】は、
御子イエスの命をかけて完成したこの救い、
私たちが、【聖である霊】と呼ばれる方によって
【父である神】との親しい、心と思いを一つにする関係の中で生きる
新しい生き方をいい加減にし、無駄にしないように、
無駄に受けないようにと願っておられるのだそうです。

 

 この生き方は、人をだますように見えても、真実であり、
人に知られないようでも、よく知られ、
死にそうでも、見よ、生きており、
罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、
貧しいようでも、多くの人を富ませ、
何も持たないようでも、
すべてのものを持っている生き方、なのですから(Ⅱコリント6:1~10)。

 

 イエスが、私たちを迎えに二度目に来られる時や
世の終わりの前兆としては、
「私こそはキリストだ」という者がたくさん現れ、
また、偽預言者が多く起こって、多くの人を惑わすのだそうです。

また、戦争のことや戦争のうわさを聞き、
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
方々にききんと地震が起こるのだそうです。

 

 そして、この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、
すべての国民にあかしされ、
それから終わりの日が来るのだそうですから(マタイ24:1~14)。

 

 私たちも、いよいよ、
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いの中へと。
今日も。

 

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