風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

力と愛と思慮分別の霊と呼ばれる方が来てくださって

主は私の命の砦、
私は誰の前におののくことがあろう。
詩27:1

 

神は、
おくびょうの霊ではなく、
力と愛と思慮分別の霊を
私たちにくださったのです。
Ⅱテモテ1:7

 

 ヨブ記2:1~10
 マルコ10:35~45(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/10;火)


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)
私たちの救い、いのちの砦になっていてくださるのですね。
だから、私たちは、
誰かを恐れ、怖がり、おののく必要はない。

 

 【父である神】が、
人となられた【御子である神】をとおして
私たちに派遣してくださる【聖である霊】と呼ばれる方は、
おくびょうの霊ではなく、
力と愛と思慮分別、慎みの霊なのだそうですから。

 

 サタンは、
天の神、【主】の御前に私たちを訴えて
私たちを自分の道連れにし、滅ぼそうとしているのですが、
天の神、【主】は、私たちが滅びてしまうことがないようにと、
サタンの働きへの許可を与えるときにも
制限を加えていてくださるのだそうですから。(ヨブ2:1~10)

 

 また、イエスの弟子たちは、
エス
「わたしは、これから殺されるためにエルサレムに行く」
と言っているのに、それに耳を貸すことをしないで、
エスは、これからエルサレムで王になるとの
自分の判断から離れられず、
ヤコブヨハネは、
エスの親戚であるコネを利用して母親と共に、
自分たちをイエスの右と左の位につかせてくれるようにと
頼みに行ったのだそうです。
それで、他の弟子たちはこれを知って腹を立てて。

 

 「的外れ」になっている私たちの内なる人、
私たち自身であるわたしたちの
〔生まれたときからの霊〕から出て来る思いは、
この弟子たちのように人の前に立ちたい、
人の上に立ち、権力をふるいたいものなのですね。

 

 けれども、イエスととおして受け入れる者に来て下さる
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いは、
皆のしもべになり、皆に仕えていきたい思いなのだそうです。

 

 イエスが、【父である神】の御思いのとおりに、
仕えられることではなく、人に仕える者となり、
多くの人のための

あがないの代価として、
自分のいのちを与えられたように。(マルコ10:35~45)

 

 私たちのいのちの砦となっていてくださる、
力と愛と思慮分別の霊と呼ばれる方は
私たちも来て下さるのだそうですから。

今日も。

 

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