妬むほどに愛して
彼らはわたしの民となり、
わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる。ゼカリヤ書8:8
御子はその体である教会の頭です。
御子は初めの者、
死者の中から最初に生まれた方です。コロサイ書1:18
黙示録2:8~11
エレミヤ書20:7~18
(ローズンゲン日々の聖句9/16;金)
かつて、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、自分を捨て、他の神々を慕い、自分の子どもを焼いてささげることまでし、弱い者、貧しい者を踏みつけ、正しい裁判をしないで自分本位に歩む民、
何度呼びかけても、聞こうとせず、「私たちは自分の思う通りをしていく」と言い張る民を、
ついに、アッシリアを用い、バビロンを用いてご自分の民を打たれたのですが、
今、ゼカリヤを預言者として立て、言われるのですね。
次のような万軍の主のことばがあった。
万軍の主はこう仰せられる。
「わたしは、シオン(エルサレム)をねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」
主はこう仰せられる。
「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。
エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の聖なる山と呼ばれよう。」
万軍の主はこう仰せられる。
「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、
年寄りになって、みな手に杖を持とう。
町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」
「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、
彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住まわせる。
このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。」(ゼカリヤ8:1~8)と。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
イスラエルの国籍がなく、もろもろの約束とも関わりのない異邦人である私たちも、
同じ、ねたむほどの愛で愛していてくださり、
私たちの身代わりとして、
御子イエスを十字架刑で処刑することによって、
受け入れる者を処刑が終わったものと手続きしてくださって、
受け入れる者をご自分と和解させてくださるのだそうです。
使徒パウロは記しています。
神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、
愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子のうちにあって、私たちは、贖(あがな)い、すなわち罪の赦しを得ています。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、
王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
また、御子はそのからだである教会(信じる者の群れ)のかしらです。
御子は始めであり、死者の中から最初に生まれた(復活した)方です。
神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
その十字架の血によって平和をつくり、
御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです(コロサイⅠ:13~20より、新改訳)
けれども、私たち、この人生において、生まれて来なかった方がよかったと思うような目に遭うこともあります(エレミヤ20:7~18)。
神は、使徒ヨハネを通して言っておられます。
「わたしは、あなたが、サタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは10日の間苦しみを受ける。
死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示録2:9~10)と。
私たちも、置かれているそれぞれの場に出て行くなら、御子イエスをかしらとし、御子イエスのからだ、肢体、御子イエスの手として、足として、耳として、口として、御子イエスがしようと思われることをしていくよう、用いていただけるのだそうです。
金メダルではなく、「いのちの冠」をいただけるその時まで。
今日も。