風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

慰められる、その時を待ち望んで

神はイスラエルに対して、
  心の清い人に対して、恵み深い。詩編731
 
 シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んだ。ルカ225
 
 ハバクク書214
 イザヤ書61711
      (ローズンゲン日々の聖句12 /3;土)
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方がイスラエルをご自分の民として選ばれたのは、イスラエル民の数が多かったからでもなく(申命記77)、従順であったからでもなく、むしろ、最も数が少なく、うなじのこわい、強情な民(申命記967)であるにもかかわらず、天の神、主のほうで彼らを愛し、恋い慕っておられたからなのだそうです。
 
 イスラエルの民に代表される私たち人間は、自分の思いを主張し続ける、うなじのこわい、強情な者、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった者(創世記3522)なのだそうです。
 
 けれども、恵み深い、憐れみ深い神は、なお、イスラエルを、そして私たちひとり一人を愛し、恋い慕ってくださっているのだそうです。
 
 それで、預言者を立てて、イスラエルの、そして、私たちすべての人間の慰められる時が来ることを預言して来られたのだそうです。
 
 2000年ほど前のエルサレム神殿でのこと、シメオンは、ヨセフとマリヤがモーセの律法に従って、生後40数日のイエスを主にささげるために神殿に入って来たとき、幼子イエスを腕に抱き、言ったのだそうです。
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばのとおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄です」(ルカⅡ:2532)と。
 
 この赤ん坊が、およそ33歳の頃、ローマ総督ピラトのもとで十字架刑で処刑されたのだそうです。
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
このイエスの処刑を私たちの処刑とみなしてくださり、
受け入れる者の、うなじのこわい「生まれたときからの霊」を処刑されたものとしてくださり、
受け入れる者にもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して、
この方によって受け入れる者の心に、
ご自身がひとりひとりに思っておられる御思いを置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを持ち、一つ心になり、一つ行動をとる者になるようにと願っておられるのだそうです。
 
 天の神、主と心を一つにする者は、
主、「わたしはあるという者」言われる方に祝福された者となり、
「わたしは主によって大いに楽しみ、
わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
主がわたしに、救いの衣を着せ、
正義の外套をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、
花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、
神である主が義と賛美とを、
すべての国の前に芽生えさせるからだ」(イザヤ61911
と言うようにしてくださるのだそうです。
 
 預言者ハバククは言います。
「もしおそくなっても、それを待て。
それは必ず来る。
(定めの時から)遅れることはない。
正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク234)と。
 
私たちも、期待して、待ち望んで。
今日。
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