正しく裁かれる時が来るのだそうですから
ヤコブよ、なぜ言うのか、
イスラエルよ、なぜ断言するのか、
私の道は主に隠されている、と、
私の裁きは神に忘れられた、と。イザヤ書40:27
自分の確信を捨ててはいけません。
この確信には大きな報いがあります。ヘブル書10:35
マラキ書3:13~18
ルカ10:17~20(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/17:金)
確かに、この世には天の神、主の神の御手は届いていなくて、悪い者が栄え、「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、なんの益になろう。今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行って栄え、神を試みても罰を免れる」というような状況があります(マラキ3:14~15)。
しかし、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は言われます。
「ヤコブよ。なぜ言うのか。
イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、
私の正しい訴えは、神の前に見過ごしにされている」と。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は永遠の神、
地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、
その英知は測り知れない。
疲れたものには力を与え、
精力のない者には活気をつける。
若者もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:27~31新改訳)と。
次のようにも書かれています。
「私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする』、また、『主がその民をさばかれる』と言われる方を知っています。
あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。』
私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、
信じていのちを保つ者です」(ヘブル10:30、35~39)とも。
確かに、イエスが言われるように、
「あなたがたの名が天に書きしるされていることよろこびなさい」なのですから(ルカ10:20)。
天に国籍を持つ者、〔父である神〕から、御思いを実現するよう派遣されて今、遣わされた場に出て行く者、用が済んだら本国へ帰る者であることを覚え、帰る国を仰ぎ望みながら進むのですね。
私たち。今日も。