常に、付け加えたり、減らしたりしている私たちを
モーセの言葉:
あなたたちは、
私が命じることをすべて忠実に守りなさい。
これに何一つ加えたり、
減らすことがあってはならない。申命記13:1
イエスの言葉:
もし命を得たいのなら、
掟を守りなさい。マタイ19:17
Ⅱコリント4:11~18
ルカ21:20~28(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/30;木)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たち人間と愛し合う関係になりたいのだそうです。
機械的、自動的なものではなく、強いられたものでもなく、
「こうあるべきだから」ということでもなく、
自由な、自発的な関係による愛し合う関係に。
そして、そのような愛の関係になっているかどうか、
私たちが心を尽くし、精神を尽くして御自身を愛するかどうか、が、私たちに分かるようにと、私たちの前に、ご自身以外のものがあることも許可しておられるようです(申命記13:3新改訳))。
天の神、主は、私たち人間を、御自身が、自由な関係において、自発的に愛し合い、一つになっていらっしゃる、その関係に入るものをと願われて、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)造られたのだそうです。
けれども、最初の人、アダムとエバは、その、天の神、主との、自由な関係における自発的な愛による、「一つになる」関係よりも、
自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選んだのだそうです(創世記3:5、22)。
天の神、主に対抗し、神の上に自分を置き(イザヤ14:13~14)、神を選び、自分の思いのとおりに動く神を作る者になる道を。
そして、このアダムの子孫として、すべての人間が、この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとする性格を受け継いで生まれて来ているのだそうです。
「女の子孫」(創世記3:15)として来られた方以外は。
そのような、私たち人間の、〔生まれたときからの霊〕から心に来る思いは、天の神、主の御思いのとおりに、ではなく、常に、自分の理性による善悪の判断、「これは善い。これは悪い」を判断して、自分の考えを神のことばに付け加え、あるいは差し引いて聞いているのですね。
イエスは、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょうか」と聞く青年に、神に対立し神に対抗している、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、「生まれたときからの私」という霊では、永遠のいのちを得る、良いことはできない、ことを分からせるために、「戒めはぜんぶ守っております」という、この青年の一番弱い所、できないところを、あえて、示されたようです。
自分がそういう者だとよく分かったうえで、「わたしについて来なさい」(マタイ19:21)と。
すべての人間の身代わりになって、十字架刑での処刑を受けるために処刑場に向かって進んで行かれるイエスに、自分の十字架を負って、自分の「生まれたときからの私」という霊は十字架刑で処刑されるはずの者だと認めて、「ついて来なさい」と。
そして、イエスの十字架刑での処刑が完了している今は、
私たちの「生まれたときからの私」という霊は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、十字架刑で「処刑されたもの」としていただいて、三日目に墓より新しい霊のからだに復活され、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、この方が私たちの心に置いてくださる〔父である神〕が私たち一人一人に思ってくださる御思いに「ついて来なさい」と。
私たちは、私たちを動かそうとて心に働きかけて来る〔生まれたときからの私〕という霊を絶えず死に渡し、イエスの命が私たちの死ぬべき肉体において明らかに現れ、〔聖である霊〕によって生きる内なる人が日々新たにされていくのだそうです。
また、主イエスをよみがえらせた方が、私たちも主イエスとともによみがえらせ、測り知れない、思い永遠の栄光に包んで御前に立たせるようにと(Ⅱコリント4:11~18)、私たちを迎えに、輝かしい栄光を帯びておられるイエスを遣わしてくださる、その時をゴールに見つめながら(ルカ21:20~28)。
今日も。