風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

光に導き入れ、恵みの御業、ご自身の義を着せて

主は私を光に導かれ、

私は主の恵みの御業を見る。ミカ書7:9

 

 一緒に食事の席に着いたとき、

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、

パンを裂いてお渡しになった。

すると、二人の目が開け、(復活された)イエスだと分かった。ルカ24:30~31

 

 ルカ24:1~12

 コロサイ書1:15~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/22;土)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、やみの中にいる者を、光そのものであるご自身の中に連れ出し、導き、恵みの御業、ご自身の義を見させてくださるのだそうです。

 

 御子は、見えない神の、人に見えるかたち、神のことばであり、

万物よりも先に存在している方。

万物、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって、御子のために造られ、

万物は御子にあって成り立っているのだそうです。

 

 その御子である神が、女の子孫として(創世記3:15)、ダビデの子孫である処女マリヤの胎を通して人となり(ルカ3:23~38)、人の世に来てくださったのが、あのイエスだというのですね(ヨハネ1:14)。

 

 父である神は、この方を、すべての人の身代わりとし、すべての人の〔的外れ〕の責任をこの方の上に置いて、神に反逆した者として十字架刑で処刑し、その流された血によって平和をつくり、万物をご自身と和解させてくださったのだそうです(コロサイ1:15~20)。

 

 2000年ほど前、過ぎ越しの祭りの時、

エルサレム城外で十字架刑での処刑を受けて死に、

近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、

三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活されたイエス(ルカ24:1~12)。

 

 この方こそ、その、御子である神。

受け入れる者に神との和解を与え、

光そのものである〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣して、

この方の中に満たし、

神の義を着せ、神の子の身分を与えて神の家族としてくださり、

〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いをそれぞれの心に置き、

神と心を一つにし、神がしようと思われることをしていく者にしてくださる方なのだそうです。

今日も。

 

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お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように

王は命令を下し、

ダニエルは

獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。

王は彼に言った。

「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」ダニエル書6:17

 

 虐げられても見捨てられず、

打ち倒されても滅ぼされない。Ⅱコリント4:9

 

 ルカ24:36~47

 コロサイ書1:9~14(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/21;金)

 

 紀元前530年頃のこと、捕囚としてバビロンへ連れて行かれたダニエルは、バビロンがメディア、ペルシャによって滅ぼされた後も、メディア、ペルシャの王ダリヨスに仕えていたのだそうです。

 

 ダリヨスは全国に120人の太守を任命し、その上に3人の大臣を置いて国を治めさせたのだそうです。

ダニエルは、その3人の大臣の中のひとりだったのですが、彼のうちに優れた霊が宿っていたので、他の大臣よりもきわだってすぐれていたのだそうです。

そこで、ダリヨス王はダニエルに全国を治めさせようと思ったのだそうです。

それで、ダニエルは他の大臣、太守たちはダニエルを妬み、訴える口実を見つけようとしたのですが、ダニエルには何の怠慢も欠点も見つけられなかったのだそうです。

それで、大臣と太守たちは王に進言して、

「今から30日間、王以外のいかなる神にも人にも、祈願する者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という法律を制定させたのだそうです。

 

 ダニエルは、それを知っても、いつものように、自分の家の、窓がエルサレムに向かって開いている屋上の部屋で、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していたのだそうです。

それで、ダニエルは訴えられ、士師の穴に投げ込まれることになったのだそうです。

なんとか、ダニエルを救おうとしたダリヨス王だったのですが、他の大臣たちに迫られ、ダニエルを士師の穴に投げ込むよう、命令を出すしかなく、

そのとき、ダニエルにこのように言ったのだそうです。

そして、天の神、主は、獅子の口をふさがれたので、ダニエルは何の害も受けず、穴から出てくることができたのだそうです(ダニエル6:1~23)。

 

 イエスの弟子たちを迫害していて、復活されたイエスが現れ、使徒とされたパウロも、

イエスによる恵みの救いを地中海世界に伝えていく中で、

古い契約によって神の前に義とされようと努力している人たちからの迫害に遭い、

幾度となく死を覚悟するような出来事を経験したのだそうですが、

「虐げられるのですが、見捨てられず、打ち倒されるのですが、滅ぼされることはなく、

かえって、イエスのいのちが現れる」出来事になったのだそうです。

 

 復活されたイエスが弟子たちに言われたように、

旧約聖書に書かれているとおりに、

キリストは、苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

約束されていた〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、弟子たちはいと高きところから力を着せられ、証人として立ち、

イエスの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられていったのですね(ルカ24:36~47)。

 

受け入れる者を、暗やみの圧政から救い出し、

御子である神、イエスのご支配の中に(コロサイ1:13)、

自分の〔生まれた時からの私〕という霊から来る思いで生きている者を

〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る思いで生きるものへと移しながら(エゼキエル36:25~28)。

今日も。

 

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ひたすら、このお方を慕い求める者に

心を正しく主に向け、

ただ主にのみ仕えなさい。サムエル記上7:3

 

 パウロの手紙:

ひたすら

キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。フィリピ書1:27

 

 ヨハネ21:1~14

 コロサイ書1:1~8(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句4/20;木)

 

 イエスによる福音、うれしい知らせは、受け入れる者の事実となって、受け入れる者を新しい生き方に導き、受け入れる者の生活の中で実を結んでいくのだそうです。

 

 〔生まれた時からの私〕という霊から来る自分の思いで生きて来た者が、

〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る〔父である神〕の御思いによって生きるものへと変えられ、

心をこの方に向け、この方の御思いがなることが願いになっていくのだそうですから。

御心が、天で、〔父である神〕の御思いの中でなっているように、地でも、この私においてもなりますように、と。

 

 イエスが十字架刑で処刑された後、ガリラヤに帰り、漁に出かけたペテロたち。

でも、その夜は何もとれなかったのだそうです。

夜が明けそめたとき、復活されたイエスが岸辺に立たれ、「船の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言われたので、右側に網をおろしてみると、153匹の大きな魚で網がいっぱいになったのだそうです。

弟子たちが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見、

イエスは、「今とった魚を幾匹か持って来なさい」と言われ、

「さあ来て、朝の食事をしなさい」と、パンを取り、彼らにお与えになり、また、魚も同じようにされたのだそうです(ヨハネ21:1~14)。

 

 私たちの〔的外れ〕の責任を取って私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださったイエス。

墓に葬られ、三日目に死人の中より、新しい霊のからだに復活され、

40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語られたあと、

弟子たちのみている前でオリーブ山から天の父である神の右の座に帰られたイエス。

 

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、受け入れる者と共にいて、この時のイエスのように、前もって私たちの行く道を整え、必要なものを用意して、私たちを運んでくださる方なのだそうです。

受け入れる者の中に働いて、伝えられた言葉のとおりの事実を起こし、

受け入れる者の心にいよいよ主を慕い求める思いを起こしてくださるのだそうです。

 

 それで、このイエスによるうれしい知らせは、2000年、世界中に広がり続け(コロサイ1:6)、受け入れる者を変え続けているのだそうです。

今日も。

 

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順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ

順境には楽しめ、

逆境にはこう考えよ。

人が未来について無知であるようにと、

神はこの両者を造られた。コヘレトの言葉7:14

 

 パウロの手紙:

私は、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。

私を強めてくださる方のお陰で、

私にはすべてのことが可能です。フィリピ4:12~13

 

 ヨハネ20:1~20

 ルカ24:36~49(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句4/18;火)

 

 順境の日も、逆境の日も神がそれぞれ目的をもって造られたのだそうです。

私たちが逆境に遭うことにも神の目的があるということでしょうか。

天の神、主は、逆境を通しても私たちに何かをしようとしておられるようです。

 

 使徒パウロは言います。

「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。

また、飽くことにも植えることにも、富むことにも乏しいことにも、

ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私を強めてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:11~13新改訳)と。

 

 旧約聖書に書かれたある通りに、

すべての人の〔的外れ〕の責任を負って、神にそむいた者として十字架刑で処刑されるという苦しみを受け、

三日目に死人の中からよみがえり、

その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられるために、約束の方が来られる(ヨハネ20:1~20、ルカ24:36~49)。

その約束の方が受け入れる者と共にいてくださるのだそうですから。

逆境の今日も。

 

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 離れた者が立ち帰ってほしいと

わたしは一度死んだが、

見よ、世々限りなく生きて、

死と陰府(よみ)の鍵を持っている。黙示録1:18(4/16の週の聖句)

 

 主はこう言われる。

倒れて、起き上がらない者があろうか。

離れて、立ち帰らない者があろうか。エレミヤ書8:4

 

 イエスは言われた。

ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

ペトロは言った。

「主よ、私があなたを愛していることを、

あなたはよく知っておられます。」

イエスは言われた。

「わたしの羊を飼いなさい。」ヨハネ21:17

 

 Ⅰコリント15:12~20

 ルカ24:13~35(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句4/17;月)

 

 天の神、主は、

人が倒れると、すぐ起き上がるように、

ご自身から離れて行ったご自分の民が帰って来るのを待っておられるようです。

 

 イエスが捕まった夜、大祭司の庭で、女中や下役から、お前もイエスの仲間だろうと言われて、三度も、イエスを知らないと言ったペテロ。

 

 十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られ、三日目、日曜日の朝、

死者の中から新しい霊のからだに復活し、弟子たちに現れたイエスは、

ペテロのその背信を責めることなく、優しく、

「わたしを愛するか」と三度聞いてくださり、

弟子たちの世話をするよう命じられたのだそうです。

 

 クレオパとその妻も、イエスが、イスラエルの王として立ち、ローマ軍を打ち破ってダビデの王国を再建してくれるものと期待していたのに、十字架刑で処刑されてしまって、失意のうちにエマオ村の自宅へ帰ろうとしていたのだそうです。

 

が、途中で近づいてきて一緒に歩いている人が、旧約聖書全体から、キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入ることを解き明かしたのだそうです。

 

それで、強いて家に泊まってもらったところ、夕食の席で、客であるその人がパンを裂いて、家の主人であるクレオパ達に渡す、その様子で、それがイエスだと分かったというのですね(ルカ24:13~35)。

 

 パウロも言います。

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、(旧約)聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです」と。

そして「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(Ⅰコリント15:13~20)と。

 

 私たちに代わって十字架刑での処刑を受けられ、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、三日目に死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って弟子たちに何度も現れて神の国のことを語り、オリーブ山で、弟子たちが見ている前で天に帰られたイエス。

 

 父である神の右の座に帰られたそのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、受け入れる者のうちに来てくださって、働いておられるのだそうです。

受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにして生きるようにと。

今日も。

 

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若いうち、元気なうちに

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

「年を重ねることに喜びはない」

という年齢にならないうちに。コヘレトの言葉(伝道者の書)12:1

 

 「イエスよ、

あなたの御国においでになるときには、

私を思い出してください」と言った。ルカ23:42

 ヨハネ19:16~30

 Ⅱコリント5:(14b~18)19~21

 ルカ23:32~49

  (ローズンゲン日々の聖句4/14;金)

 

 私たちにも、「なんの喜びもない」というような年齢が来るのですね。

今まで出来ていたことが一つ一つ取り去られ、歩くことも、食べることも、出すことも自分一人ではできなくなる、そのような日々が。

 

 そのようなときにも、創造者である、天の神、主との語らいを持っている者は喜びがあるのだそうです。

だから、青春の日々に、まだ元気なときに、創造主との関係を深めておくようにと伝道者は言うのですね。

 

 けれども、遅すぎるということもないようです。

イエスと一緒に十字架につけられた強盗のひとりは、最初のうちはみんなと一緒に、「お前が神の子なら自分を救い、私を救え」とイエスをなじっていたそうですが、イエスの静かに刑を受けている様子を見ているうちに、この人はただの人ではないと分かり、言ったのだそうです。

「御国で、私を思い出してください」と。

イエスは答えて

「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます」と言ってくださったのだそうですから。

 

 イエスは、十字架の上で、「すべてが終わった」、「完了した」と言われて息を引き取られたのだそうです(ヨハネ19:30)。

私たち人間の救いのためにしなければならないことは全部し終えた、と。

 

 使徒パウロは言います。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

神が私たちを通して懇願しておられるようです。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。

神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリント5:14~21)と。

 

神は、私たちが、イエスが受けられた十字架刑での処刑によって手続きが完了した救いを受け取って、神と和解し、

私たちのために死んでよみがえった方の御思いによって生きる生き方を受け取ってほしいのだそうですね。

今日も。

 

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恥をぬぐっていただいて

主よ、あなたの嗣業である民を

恥に落とさないでください。ヨエル書2:17

 

 見よ、

世の罪を取り除く神の小羊だ。ヨハネ1:29

 

 ヨハネ13:1~15(34~35)

 Ⅰコリント11:23~26

 ルカ23:26~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/13;木)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が選ばれ、ご自分の民とする契約を結んだ人々。

しかし、彼らは、この契約を軽んじ、その地の他の神々に心、惹かれていき、預言者を遣わして、何度も立ち帰るよう呼び掛けても無視するばかりで、ついに天の神、主に打たれることになったのだそうです。

それで、周りの国々からは「彼らの神はどこにいるのか」とあざ笑われる状況だったようです。

 

 天の神、主は、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と望まれて造られながら(創世記1:26)、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たち人間の、反逆者、造り主である神を捨てた者との恥をぬぐってくださろうとしているのだそうです。

 

 バプテスマのヨハネは、自分の前にバプテスマを受けに来ているナザレ村のイエスを、〔独り子である神〕と呼ばれる方が、〔女の子孫〕として(創世記3:15)、私たちの身代わりとなり、私たちの罪を背負って命をささげる犠牲の小羊として人の世に来てくださった方だ(ヨハネ1:14)、と世に紹介しているのですね。

 

 その言葉のとおりに十字架刑での処刑を受け、墓に葬られ、三日目、日曜日の早朝、新しい霊のからだに復活されたイエス。

 

 40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国について語られた後、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の、父である神の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエス。

 

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。

その方は、受け入れる者の心に〔父である神〕が、私たち一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださる方なのだそうです(エゼキエル36:25~27)。

 

それで、私たちも、恥をぬぐわれ、〔父である神〕、〔御子である神〕と一つ思いを思う者にしていただけるのだそうです。

 

私たちにも、イエスが弟子たちの足を洗われたように(ヨハネ13:1~15)、互いに足を洗い合う思いが心に来るようになるのだそうです。

 

 イエスの死を覚え(Ⅰコリント11:23~26)、〔生まれたときからの私〕という霊から出てくる思いは、イエスの死に合わせていただいて死んだものとしていただいている霊から来た思いであるとして、イエスの御前に投げ捨てながら。

今日も。

 

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