風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

主の御思いを求めて

苦難の襲うとき、

私は主を求めます。

夜、私の手は疲れも知らず差し出されます。詩77:3

 

 主が、あなたがたに

神の愛とキリストの忍耐とを

深く悟らせてくださるように。Ⅱテサロニケ3:5

 

 エフェソ書1:15~23

 使徒5:17~33(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/2;金)

 

 苦難の日、

天の神、主が、私たちの願いを拒まれ、私たちに対する慈しみを閉じてしまわれたように思えるとき、

なお、私たちは天の神、主に向かって手を差し出し、声をあげ、叫ぶのですね。

かつての、天の神、主がなさったくすしいわざを思い起こしながら。


 主は真実な方。私たちを悪いものから守ってくださる方。

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑されたもの、死んだものとしていただき、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えした者に、

この方によってその心の思いを導き、

神の愛とキリストの忍耐を悟らせ、持たせてくださるのだそうです。

 

神を知るための知恵と掲示を与え、

心の目がはっきり見えるようにしてくださって、

神の召しによって与えられた望みがどのようなものか、

聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを

体験させてくださるのだそうですから。

 

 〔父である神〕は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、

キリストを死者の中から、新しい霊のからだによみがえらせ、

天上においてご自分の右の座に着かせて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、

また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、

すべての名の上に高く置かれているのだそうです。

 

 〔父である神〕は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

いっさいのものの上に立つかしらとされ、

受け入れる者を、ご自身のからだとし、

〔聖である霊〕と呼ばれる方によってその心を導き、

手足がその人の思いのとおりに動くように、私たちをご自身のからだとして用いて、

ご自分がしようと思われる栄光のみわざを現してくださるのだそうですから(エペソ1:15~23)。

 

 イエスの弟子たちが、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いのままに、

数か月前に人々の目の前で十字架刑で処刑されたイエスの復活を語り出し、

大祭司とその仲間の者たちが留置場に入れ、裁判にかけ、死刑にしようとするおびやかしにもかかわらず、

エルサレム神殿で、このいのちのことばを語り続け(使徒5:17~33)、

このイエスの復活にかかわる喜びのニュースが、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地の果てにまで、

東の果ての日本にまで伝えられ(使徒1:8)、

受け入れた人々に新しい人生を起こしているように。

 

だから、〔父である神〕の御思いを求め続けていくのですね。

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。

今日も。

 

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大きな喜びをもって、

ダビデは主に言った。

「私は重い罪を犯しました。

主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。

変愚かなことをしました。」サムエル記下24:10

 

 イエスの言葉:

言っておくが、

このように、ひとりの罪びとが悔い改めれば、

神の天使たちの間に喜びがある。ルカ15:10

 

 使徒1:12~26

 使徒5:12~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/1;木)

 

 王位が確立し、国が安定した頃、ダビデ王は、自分の国の軍事力を確かめたくなったようです。それで、将軍ヨアブに命じて民を数えさせたのだそうです。

けれども、そのあと、良心の咎めを感じ、このように神に祈ったのだそうです。

 

 取税人や罪びとが大勢、イエスの話しを聞こうとして、イエスのところに集まるのを見て、

パリサイ人や律法学者たちはつぶやいたのだそうです。

「この人は、罪びとたちを受け入れて、食事までいっしょにする」と。

 

それでイエスはこのようなたとえを話されたのだそうです。

羊を百匹持っている人がいて、

一匹をなくしたら、

99匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩き、

見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、

友だちや近所の人を呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言う。

 

 また、女の人が、10枚一組の記念の銀貨を持っていて、

その一枚をなくしたら、

あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜し、

見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、

「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言う。

 

 それと同じように、ひとりの罪びとが悔い改めるなら、

神の御使いたちに喜びがわき起こる、と。

 

 そして、その喜びをもって、〔父である神〕は、

ご自分に帰って来た者の、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの自分〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたもの、死んだものと手続してくださり、

新しい霊として〔聖である霊〕と呼ばれる方を、待ち望む者に派遣して、

ご自分の子、ご自分の家族とし、

愛において、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。

 

 それで、イエスの弟子たちは(使徒1:12~26)、

この〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、

この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る〔父である神〕の御思いのとおりに、

心を一つにして、多くのしるしと不思議なわざを行うようになったのだそうです。

 

 それで、ついには、人々は病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになったのだそうです。

 

エルサレムの付近の町々から、大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来て、その全部がいやされたのだそうですね(使徒5:12~16)。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

大きな喜びをもって、ご自身に帰って来た人たちを、同じように扱ってくださるのですね。

今日も。

 

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いつも、主に目を注いで

私はいつも主に目を注いています。

私の足を網から引き出してくださる方に。詩25:15

 

 あなたがたも忍耐しなさい。

心を固く保ちなさい。

主が来られる時が迫っているからです。ヤコブ書5:8

 

 イザヤ書32:11~18

 使徒5:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/31;水)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に、

いつも目を注ぐのだそうです。

 

 この方は、私たちの足を網から引き出してくださる方。

 

 イエスは、二度目に来られて、

私たちがいつもこの方と一緒におられるようにと、

ご自身のもとに私たちを引き上げてくださる方なのだそうです。

 

 それで、畑に種を蒔いた農夫が、大地の貴重な実りを、忍耐をもって待ち望むように、心を固く保って待ち望みなさいと勧められているようです。

 

 天の神、主は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、ご自身に対立、対抗している私たち人間が、

あるいは、心の向きを変えて、ご自分に立ち返ることもあろうかと、

ぶどうの収穫をなくし、栄えていた街を打たれて荒れ地とし、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となさるのだそうですが、

それでも、私たちはこの方に帰ろうとはしないのですね(アモス4:6、8、910、11)。

 

 それで、ついには、

〔御子である神〕が、「女の子孫」として人の世に来られ、

私たちの身代わりとなり、

私たちの「的はずれ」責任をご自身の身に負って十字架刑での処刑を受けられるという、

この方の側の一方的な御業によって、

私たちの〔生まれた時からの私」という霊を処刑済みと手続してくださって、

これを受け入れた者に、

上からの霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られ、

荒野が果樹園に、果樹園が森とみなされるようにしてくださるのだそうです。

 

公正は荒野に宿り、義は果樹園に住み、平和をつくり出し、平穏と、信頼をもたらし、安全な家、安らかないこいの場に住むようにと(イザヤ32:11~18)。

 

 私たちも、この、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

心に、〔父である神〕の御思いを置いていただきながら(エレミヤ31:33)、

女奴隷の目が女主人の手元を注意深く見つめているように(詩123:2)、

〔父である神〕の御思いに目を注ぎながら生きるのですね。

 

エスが二度目に来て下さるその日を目指して。

今日も。

 

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思いやる心が、私たちにも来て

主であるわたしは、わたしの僕を立てた。

見ることのできない目を開き、

捕らわれた人をその枷(かせ)から、

闇に住む人をその牢獄から救い出すために。イザヤ書42:6、7

 

 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、

また、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。ヘブル書13:3

 

 Ⅰヨハネ4:1~6

 使徒4:32~37(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/30;火)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、愛に満ちた方なのだそうですね。

それで、私たちにも愛し合う者になってほしいと願っておられるようです。

 神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった私たち自身である私たちの〔生まれた時からの私〕という霊は、自分を他よりも優れたもの、上のものにしなければ気が済まず、他を自分の足の下に置いて、見下していく性質を持っているようです。

 

 イエスの十字架刑での処刑を、この、〔生まれた時からの私〕という霊の処刑としていただいた者に来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、愛に満ちた方。

他を大切に思い、他を思いやる〔父である神〕の御思いを受け入れる者の心に置いてくださる方なのだそうです。

 

 それで、この方によって、〔父である神〕の愛の思いが、私たちの心にも来て、私たちも牢獄に捕らわれている人、虐待されている人を思いやる心を持つ者にもしていただけるようです。

 

 この〔聖である霊〕の働きを受けた最初の弟子たちの群れは、心と思いを一つにし、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、自発的にすべてを共有にしていて、ひとりも乏しい者がなかったのだそうです(使徒4:32~37)

 

 この世にはいろいろな霊が働いているのだそうです(Ⅰヨハネ4:1~6)。

それで、その霊がどこから来た霊なのか見分ける必要があるようです。

 

エスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来て下さる〔聖である霊〕が働かれるところでは、愛し合い、他を大切に思い合い、弱い立場の人(信仰の弱い人も)を思いやる実が結ばれて行くのだそうですから。

今日も。

 

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大胆に、恵みの御座に近づけるようにと

主よ、あなたは従う人を祝福し、

御旨のままに、

盾となってお守りください。詩5:13

 

 憐れみを受け、

恵みにあずかって、

時宜にかなった助けをいただくために、

大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。ヘブル書4:16

 

 エゼキエル書11:14~20

 使徒4:23~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/29;月)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、ご自分と正しい関係にいる者、ご自分と思いを一つにして生きる者を祝福しようと思っておられる方、

大盾で囲むようにして愛で囲み、

守ってくださる方なのだそうです。

 

 〔父である神〕は、〔御子である神〕を、ご自身と民との間に立ち、

民の「的外れ」の責任を自分の身で償い、

ご自身と民とを取りなす大祭司として立てられたのだそうです。

 

 それで、〔御子である神〕は、

アダムの「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:22)「的外れ」の性質を受け継がない「女の子孫」(創世記3:15)として、人の世に来られ(ヨハネ1:1~14、ルカ2:1~22)、

人として歩まれ、

およそ33歳の頃、「民の罪を贖(あがな)う、贖いの小羊」として(出エジプト12:1~13、ヨハネ1:29)、

神に反逆し呪われた者となって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 

 「父である神」は、この、御子イエスを死人の中から新しい霊のからだに復活させ、

40日に渡って弟子たちに現れさせたのち、

天のご自身の右の座に帰らせ、

私たちのための大祭司となさったのだそうです。

 

 それで、今、私たちには、〔父である神〕の右に、大祭司として御子イエスがいてくださるので、

恵みをいただいて、時宜にかなった助けをいただくために、

このままで、大胆に御座の前に出て行って大丈夫なのだそうです。

 

 〔父である神〕は、この、〔御子である神、イエス〕を通して、

もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、

受け入れる者の心に、ご自身の、私たち一人一人に対して思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。

 

 それで、受け入れる者は、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、自分の理性の判断で凝り固まり、石のように固くなっている心を死んだものとして砕いていただいて、

柔らかい、柔軟な肉のような新しい心を与えていただき、

〔父である神〕を愛する者、

〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きる神の民としていただけるのだそうです(エゼキエル11:18~20)。

 

 それで、この〔聖である霊〕と呼ばれる方に来ていただいたイエスの弟子たちは、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が導かれるままに、

〔父である神〕の御思いのとおりにいやしの御業をなし(使徒3:1~10)、

祭司長たちの脅しにもかかわらず、

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、〔父である神〕の御思いを、大胆に語り続ける者にしていただけたのだそうです(使徒4:23~31)。

 

 私たちも、〔御子である神、イエス〕と〔聖である霊〕と呼ばれる神によって、

大胆に〔父である神〕の御前に出て愛の交わりに入れていただき、

〔父である神〕が私たち一人一人を通してしようと思われる祝福の業を大胆に実行していく者にしていただけるのだそうです。

今日も。

 

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私たちの労苦と悩みをご覧になって

わたしが地上から上げられるとき、

すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。ヨハネ12:32(5/28の週の聖句)

 

 あなたは必ず御覧になって、

御手に労苦と悩みをゆだねる人を、顧みてくださいます。詩10:14

 

 イエスは人々を迎え、

神の国について語り、

治療の必要な人々をいやしておられた。ルカ9:11

 

 ヨハネ15:26~16:4

 詩27(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/28;Ⅳ日)

 

 イエスは、自分が十字架刑での処刑を受けることを知っておられたようですね。

過ぎ越しの祭りにエルサレムに上って来ていた幾人かのギリシャ人が、イエスの弟子のピリポに「イエスにお目にかかりたいのですが」と頼んだ時、イエスはこのように言われたのだそうです。

 

 「わたしが地上から上げられる」、

十字架刑で天と地の間に掲げられる、

そのとき、「すべての人」を自分のもとへ引き寄せる、

 

神の民イスラエルだけではなく、全世界のすべての人を、という意味でしょうか。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、最初から、すべての人を祝福しようと考えておられたようです。

 

それで、イスラエル民族の始祖アブラハムに「わたしはあなたを祝福し、あなたは祝福となる。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:1~3)と仰られ、

それが、2000年後の今、イエスによって実現しようとしているようです。

 

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている者の心の奥底には、「神はいない」、「神は見ていない」との思いが潜んでいるようです。

だから、わざわざ、「天、知る、地、知る、我も知る」などと教えないといけないようです。

 

 けれども、私たち人間を造られた方は、必ず、見ておられ、労苦と悩みを御手にゆだねる人々を顧みてくださる方なのだそうです。

 

それで、イエスは、ご自分のもとに来る病の人、治療の必要な人をいやしてくださり、

ご自分を、律法を教える先生ではなく、癒しが必要な人を招く医者に例えられ、

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです」と言われたのでしょうね(マタイ9:12~13)。

 

 私たちすべての人間の身代わりとなり、すべての人の「まとはずれ」の責任を負って十字架刑で地上から上げられ処刑を受けてくださり、贖いを完成されたイエスは、

近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたのだそうですが、

三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活し、

40日に渡って何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語ったのち、

オリーブ山から、弟子たちのみている前で雲に迎えられ見えなくなり、

天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

 

 イエスは言い残していかれました。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、

すなわち父から出る真理の御霊が来る」(ヨハネ15:26)と。

 

その方が、受け入れる者の心に、イエスについてあかしをし、

「御顔」、〔父である神〕の自分に対する御思いを慕い求めていく愛を起こしてくださり、新しい生き方、祝福された生き方を生きさせてくださるのだそうです(詩篇27)。

今日も。

 

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心に思うことが幼いときから外れている私たちを

主は言われた。

「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。

人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」創世記8:21

 

 あなたがたも知っているように、

御子は罪を除くために現れました。Ⅰヨハネ3:5

 

 黙示録4:1~11

 使徒4:13~22(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/27;土)

 

 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった人間が心に思うことは、もの心ついた時から、天の神、主と思いを一つにしていく方向ではなく、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対立、対抗して、自分を神の上に位置していく思いのようです。

 

 それで、人間同士にあっても、

それぞれが自分を他の人の上に置こうとし、

他を自分の善悪の判断に従わせようとして対立、対抗し、

良いものの全部を自分一人で独占しようとして他を蹴落としていこうとする性質を持っているようです。

 

 人は、その性質を道徳や教育でカバーしようとするのですが、表面は整えられたとしても、本心は変わらないようです。

 

 人の心に計ることがみな、いつも悪いととだけに傾き、堕落し、地に暴虐が満ちたので(創世記6:5、11)、天の神、主は、洪水によって地を一掃し、ノアとその家族、箱舟に入ったものたちによって世界を新しく始めることをされ、人の悪のゆえに「大地を呪うことは二度とすまい」と言われたのだそうです。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、人の心の悪のゆえに人と大地にあるものを罰する道ではなく、

贖(あがな)う、

身代わりのものを罰することで赦す道を用意しようとされていたのだそうです。

 

 それで、「世の罪を取り除く神の小羊」、

すべての人の身代わりとなり、すべての人の「的外れ」の責任を負って処刑される小羊(出エジプト12:3、7、13、イザヤ53)として、

〔父である神〕の御思いを受けて、

〔御子である神〕が、「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に来られ、

神に呪われた者として、十字架刑で天と地の間に掲げられ、処刑を受けてくださったのだそうです。

 

 「父である神」は、この〔御子である神、イエス〕の受けられた処刑を、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、私たち一人一人の〔生まれた時からの私〕という霊の処刑と見なしてくださり、

〔生まれた時からの私〕という霊の死亡手続きを済ませてくださっているのだそうです。

 

 そして、三日目、日曜日の早朝、死者の中から、新しい霊のからだに復活し、

40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、

オリーブ山から、弟子たちの見ている前で上げられ雲に迎えられて見えなくなり、

天の父である神の右の座に帰られたイエスを通して、

受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し(ヨハネ14:16)、

この方によって、受け入れる者の心にご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いて、

受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、同じ願いを願い、心を一つにして御思いのとおりに生きる者にしてくださるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。

 

ご自身が語ろうとすることを語る者としてくださり(使徒2:4、4:8、13)、その、語った通りの事実をもって保障してくださるのだそうです(4:14)。

 

 実に、被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる(黙示録24)希望をもって、

切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのだそうですから(ロマ8:19~21)。

今日も。

 

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