風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

立ち上がって、示されたとおりに一歩踏み出してみる。その信頼を大事に思って下さるようですね。あの方

立ち上がって実行せよ。

  主が共にいてくださるように。歴代誌上22:16

 

 

主の天使が夢に現れて言った。  「起きて、子どもとその母を連れて、エジプトに逃げ、    わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」マタイ2:13

...

        (ローズンゲン日々の聖句12/27;土)

 

 

 示されるとおりに行動を起こしてみると、共にいて下さることが分かるのだそうです。

 

 出エジプトの時、イスラエルの民が葦の海を渡ったのも、それは夜の出来事で、海が分かれたのを向こう岸まで見通せて、これなら大丈夫と確認できて踏み出したというのではなく、暗闇の中を、踏み出してみると、稲妻の光の中で、足もとの水が分かれていて、足もとは乾いた地のようであったということのようですね。一歩踏み出してみると次の一歩が開かれているのが分かる、一歩、一歩のことだったようです(出エジプト14:19~27、朝の見張りの頃;午前3時~午前6時頃)。

 

 

 ヨルダン川を渡る時もそうだったようです。 刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれている水が、契約の箱を担いだ祭司が御言葉のとおりに踏み出し、その祭司の足が水ぎわに浸った瞬間、上流から流れてくる水はせき止められ、つっ立って、民は乾いた地を行くように渡って行ったのだそうです。

 祭司が、岸辺で、水が止まるのを待っていたのでは、主が共にいて下さって為して下さるその御業を見ることはできなかったのでしょうね。

 

 

 イエス誕生の時も、ヨセフが、夜が明けるのを待つのではなく、天使の言葉のとおりにすぐ行動を起こしてエジプトに向かって出発したので、赤ん坊のイエスがヘロデ王の手にかかって殺されるのを免れたようですね。

 

 具体的なことに当たって、私たちはいろいろ思いめぐらしますが、自分の思いはともかく、天の神、主が示されるとおりに一歩踏み出してみると次の一歩分の道が開けて、その一歩踏み出す。そうしているうちに気がついてみると向こう岸にたどり着いていた、というようなことのようです。

 

 私たちと共にいて下さる方は、示されたとおりに一歩を踏み出す、その信頼を大事に思って下さるようですね。今日も。

 

 

 

 

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