風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

帰って来ておくれと仰っておられるのだそうです。後始末を全部済ませた上で

「背信の子らよ、立ち帰れ。

 わたしは背いたお前たちをいやす。」


「我々はあなたのもとに参ります。
 あなたこそ我々の主なる神です。」エレミヤ書3:22

 

 

神に近づきなさい。

 そうすれば、神は近づいてくださいます。
  罪人たち、手を清めなさい。
   心の定まらない者たち、心を清めなさい。ヤコブ書4:8〜9

 

         (ローズンゲン日々の聖句1/9;金)

 

 

 配偶者を捨てて他の異性のもとに走った者、
あるいは、自分の思いのとおりにやりたいからと
親のもとから家出をした子どものような私たち人間。

 

 そんな私たちに呼びかけておられるのですね。
「背信の子らよ。帰ってきておくれ」と。
「お前たちの不始末の後始末は、わたしが全部済ませているから」と。

 

 御子イエスが命を差し出し、十字架刑で処刑されて下さったことによって、
償いが充分に済んでいる今は、
私たち、このままで神に近づいていいのだそうです。
私たちが近づこうとする時、
神ご自身が私たちに近づいてくださるのだそうですから。

 

 

 心の定まらない、
こうあるべきという基準とそうではない自分の本心との、二つの心の間で心が揺れ動く私たち。
神は言われるのですね。
心を清めなさい、ピュア―にしなさい、単一にしなさい、と。

 

 あるべき基準になろうとすれば、二心になるしかない私たち。
本心のほうになら単一な心になれるのでしょうか。
ずれてしまっている、はずれてしまっている本心に成り切って
神に近づきなさい、神の前に出て来なさいとおっしゃられるのですね。

 

 出て行って、光に照らされてみれば、
その私の全部がイエスが十字架刑で処刑されて下さった出来事で
処罰済みになっていることが分かるのだそうです。

 

 生れたときからの私自身である霊は、処刑済みの扱いになっていて、
新たに、聖である霊と呼ばれる方が私たちのうちに来て下さって、
この方の思いが私の心に私の思いとして浮かんでくる。


そのこの方から来る思いを我が思いとして
新しく生きる者としていただけるのだそうです。
今日も。

 

 

 


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