風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

あらゆる神秘と知識に通じていても、愛がなければ、

災いだ、
 自分の目には知者であり、
  うぬぼれて、賢いと思う者は。イザヤ書5:21
 
たとえ、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰がをあれば持っていようとも、
  愛がなければ、無に等しい。Ⅰコリント13:2
 
        (ローズンゲン日々の聖句2/26;金)
 
 私たち、人間はどこかで自分は賢いと思っているのですね。
それで、大いなるものは大いなるものなりに、小さい者は小さいものなりに、自分の理性を信じ、自分の理性の判断をよしとして、天の神、主に聞こうとはしない。
 
 天の神、主と一つになるようにと願われて造られながら(創世記1:26)、天の神、主との一つを捨てて、自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:22)私たちは、心のどこかに「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13~14)とする、サタンの性質を受け継いでいるようです。
本質的に、天の神、主に対抗し、逆らう者になっていて、天の神、主との愛し合う関係は失われてしまっている者のようですね。
 
 天の神、主は、その私自身、「生まれたときからの私」という霊を、イエスが十字架刑で処刑されて下さったことによって、処刑済みの者、死んでしまっている者と手続きしてくださって、新たに、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、この方の働きによって、受け入れる者を新しい人格で生きる者としてくださるのだそうです(ヨハネ3:1~15)。
 
 愛は、「生まれたときからの霊」という私自身から出て来ることはなく、この「聖である霊」から来るものなのだそうですから。
 
 天の神、主は、自分を賢い者と思っている生き方をしている者、あるいは、賢くない自分を見て自分を赦せないでいる者を、死んでしまっている者としてくださり、「聖である霊」と呼ばれる方から来る、相手を大切にし合う思いを私の思いとしてくださって、生かしてくださるのだそうです。
今日も。
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