風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

愛と慈しみが現れるのだそうですね。

人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、
  永遠の命を得るためである。ヨハネ3:14〜15(3/20の週の聖句)
 
背きの罪は私たちと共にあり、
  私たちは自分の咎を知っている。
 主に対して偽り背き、
   私たちの神から離れ去った。イザヤ書59:12〜13
 
しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、
  人間に対する愛とが現れたときに、
 神は、私たちが行った義の業によってではなく、
   ご自分のあわれみによって、
     私たちを救ってくださいました。テトス書3:4~5
 
        (ローズンゲン日々の聖句3/20;日)
 
 私たち人間を愛し、憐れんで下さっている方が、私たち人間の側に期待しても、ご自分と思いを一つにしようとはしない者であることを、この人間の歴史の中で実証されたうえで、ご自分のほうで義を用意して、これを受け取る者に着せてくださるという、救いの道を、この人間の歴史の中で用意されたのだそうです。
 
 天の神、主は、ご自分と思いを一つにし、行動を共にし、存在を一つにする者、いつも一緒にいてお互いを喜び合う存在を、と望んで、私たち人間を創造してくださったのだそうです(創世記1:26)。
 
 けれども、私たち人間は、天の神、主とひとつであることよりも、もっと素晴らしくなりたいと思うようになり、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとする生き方を選び取ったんだのだそうです(創世記3:22)。
 
 それで、私たちは、天の神、主の、創造の目的から大きく外れた者となっているのだそうですが、私たち自身が自分がそう言う者であるという現実をを知っているのですね。
 
 天の神、主は、そうなってしまっている私たち人間を、なお、見捨てないで、ご自身の側で回復の道を用意されたのだそうです。
 
 永遠の初めから共におられ、この宇宙の創造、人間の創造を共にされた「御子である神」、「神のことば」と呼ばれる方を、男の血筋を受け継がない女の子孫として(創世記3:15、ルカ1:26~38)、人間の世に生れさせ、この方を私たち人間の身代わりとして、反逆者として十字架刑で天と地の間に高く掲げて処刑されたのですね。
 
 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の救い主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して、この方の働きで、受け入れる者の心に、その一人一人に関わるご自身の御思いを書き付けて、ご自身が思っていらっしゃる同じ思いを思う者、思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者にしてくださるのだそうです。
この、天の神、主との一つの中を生きることが、創造の目的にそった生き方であり、「義」なのでしょうか。
 
 「永遠の命とは、彼らが唯一の眞の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」とイエスは言われましたが(ヨハネ17:3)、受け入れる者は「聖である霊」と呼ばれる方によって、日々、体験的に知っていくことになるのだそうです。
この新しい週も。
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