風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべてを用意し、与えていて下さる方が、

寄進ができても、私など何者でしょう。
  私の民など何者でしょう。
 すべてはあなたから頂いたもの、
   私達は御手から受け取って、
    差し出したにすぎません。歴代誌上2914
 
 パウロの手紙:
あなた方の現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、
いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補う事になり、
こうして釣合いがとれるのです。Ⅱコリント81415
 
      (ローズンゲン日々の聖句7/1;金)
 
 天の神、主は、私たち人間を、機械的に、平均に、全部を同じものに造ろうとはされなかったようです。大量生産ではなく、一人一人に、それぞれ独自のデザインを、その人その人のイメージをもって造られたのだそうです。
 一つのからだの多くの肢体のように、目は目のように、耳は耳のように、手は手の働きを、足は足の働きをするようデザインされたのですね。
 
 そして、違いがありながら、お互いがお互いをなくてはならない大切なものと認め合うようにと。
そして、互いが互いを思いやり、補い合い、助け合うようにと。
 
 
 「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記35622)としている私たち人間は、
「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
密雲の頂、天の神、主より上の位に上り、
いと高き方のようになろう」(イザヤ141314とする性質、
他の者を引きずりおろして自分を一番上に上げないと気が済まない性質を受け継いでおり、
軒に軒を連ねて、他の者の入り込む余地をなくし、
畑の隅々まで刈り取って、落穂も残さず、貧しい者に配慮しないで、
良いものを全部、自分一人で独占しようとする者なのですね。
 
 そのような性質を受け継ぐ「生まれたときからの霊」を、天の神、主は、イエスの十字架刑で処刑によって処刑されたもの、死んだものと手続きし、古いものとしてくださるのだそうです。
 
 そして、受け取る者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって受け取る者の心に、ご自身の御思い、性質を置いてくださり、御思いによって新しく生きる者にしてくださるのだそうです。
 
 ダビデ王が言っているように、私たちも、今、持っているものは、全部、天の神、主からいただいたもの、天の神、主が前もって用意していてくださったものであると悟らせ、
いに相手を大切に思い合い、愛し合い、今、持っているものをもって、互いの不足を補い合い、多く集めた者も余らず、少なく集めた者も足りないことがない(出エジプト16:18)、自発的に平等になろうとする思いも、心に置いてくださるのだそうです。
 
 天の神、主を信じる信仰さえも、自分で信じられるものでもなく、「あなたの信仰がなくならないように」とのイエスの祈りによっているのだそうです。ペテロのように(ルカ22:32)。
 
 「聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者とともにいて、働かれるのだそうですね。
今日も。