自由に生きる
主の御前に非常に激しい風が起こり、
山を裂き岩を砕いた。
だが風の中に主はおられなかった。
風の後、地震が起こった。
だが地震の中にも主はおられなかった。
地震の後、火が起こった。
だが火の中にも主はおられなかった。
火の後、静かにささやく声が聞こえた。列王記上19:11~12
主の霊のおられるところに自由がありますⅡコリント3:7
フィリピ書4:8~14
エレミヤ書7:1~15
(ローズンゲン日々の聖句9/5;月)
天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方は、
山を裂き、岩を砕く激しい風の中にも、大きな地震の中にも、火の中にも
おられなかったのだそうです。
静かなささやく声、「聖である霊」と呼ばれる方が私たちの心に、父である神の御思いを置いてくださるとき、それは、この静かなささやき声のようなときが多いのかもしれません。心を静め、耳をそばだてていないと気がつかないような。
天の神、主から、「わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった」(エレミヤ7:13)といわれる私たちですが、イエスの十字架刑に合わせていただくなら、イエスの十字架刑での処刑で処刑されたもの、死んだものとしていただいて、今までのすべてのしがらみから自由にしていただけるのだそうです。「生まれたときからの霊」という私自身の理性の判断からも。
自分の理性による善悪の判断、私たちは、それを、アダムとエバが木の間に身を隠したように隠していこうとする者ですが(創世記3:8)、それも、全部、天の神、主に申し上げ、見ていただき、知っていただき、光の中の出来事としていただきながら、「聖である霊」と呼ばれる方によって私の心に来る、父である神の御思いに耳を傾けながら、この方と一緒に進んで行くのだそうです。
この方と心を合せていくなら、随所に主となることができ、自由な者とされるようですね。
この方によって、私たちは、貧しさの中にも、豊かさの中にも、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処していくことができ(フィリピ4:12~13)、
「随所に主となれば立処皆真なり」という、周りの状況に引きずり回されない、自由自在の境地を生きていけるようです。
今日も。