風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

取り消されることはないのだそうですから。賜物も招きも。

わたしが諸国の民の中から連れ出し、

  散らされていた国々から集めるとき、

   わたしは 諸国民の前で、お前たちに自分を聖なるものとして示す。

わたしが先祖に与えると誓った地、

  イスラエルの土地に導き入れるとき、

 お前たちはわたしが主であることを知るようになる。エゼキエル20:41~42

 

 神の賜物と招きとは取り消されないものです。ロマ書11:29

 

 ヘブル書10:32~39

 イザヤ書59:15b~21

      (ローズンゲン日々の聖句11/29;火)

 

 キリスト紀元前597年、1回目のバビロン捕囚のとき、祭司であったエゼキエルも捕囚となったようですが、

天の神、主は、そのバビロンの地でエゼキエルを預言者として用いられたのだそうです。

 

 この、バビロンによって散らされた民は、

その70年後、イスラエルの地に帰ってくることになったのだそうですが、

キリスト紀元70年、ローマ軍によって国を失い、世界に散らされたイスラエルの民は、

2000年を経た今日、世界中からイスラエルの地に帰って来ているのだそうです。

 

 天の神、主は、彼らのそむきにもかかわらず、ご自分の民を退けてしまわれることはないのだそうです。

神がご自分の賜物と招きを取り消されることはないのだそうですから。

イスラエルの場合も、私たちの場合も。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、

あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、

今よりとこしえに離れない」(イザヤ59:21)言われるのだそうですから。

 

 

 独り子である方を、人間イエスとして人の世に遣わし、

すべての人のすべてのそむきの責任をイエスに負わせて十字架刑で神に呪われた者として処刑し、

受け入れる者の「生まれた時からの霊」を処刑済み、処罰済み、死んだものとしてくださった方、

 

 受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、

この方によってご自身の一人一人に思っておられる御思い、ことばを受け入れる者の心に置き、

受け入れる者がご自身と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者にしてくださる方(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:20~24)がそう言われるのだそうですから。

 

 

 神のみこころを行って、約束のものを手も入れるためには、

忍耐が、待ち望み続けることが必要なのだそうです。

 

 十字架刑で処刑され、墓に葬られたイエスは、三日目の日曜日の早朝、墓から、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されたのち、オリーブ山から弟子たちのみている前で天に上げられ、天の父である神の右の座に帰られ、今、その神の右の座にあって、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者に派遣していてくださるのだそうです。

 

 そのイエスが、受け入れる者を迎えに来られ(Ⅰテサロニケ4:16~17)、

次には、王としてこの世界を統治するために、

また、オリーブ山に立たれるというのですね(ゼカリヤ14:4~21、黙示録19:1~20:6)。

 

 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。

わたしの義人は信仰によって生きる。

もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」

私たちは、恐れ退いて滅びるばかりの者ですが、

イエスによって、信じて、待ち望んで、いのちを保つ者にしていただけるのだそうですから(ヘブル10:35~39)。

今日も。

 

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