風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

何事もみ旨のままに行われる方の御思いによって

天において、

地において、

海とすべての深淵において、

主は何事をも御旨のままに行われる。詩編135:6

 

 人々は驚いて、

「いったい、この方はどういう方なのだろう。

風や湖さえも従うではないか」と言った。マタイ8:27

 

 ロマ15:7~13

 ルカ6:43~49

    (ローズンゲン日々の聖句1/24;火)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

何事も、望むことを御旨のままに行われる方。

地の果てから、雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風邪を出される方。

 

 それで、イエスが、漁師も死を覚悟するようなガリラヤ湖の嵐を、神の御子の権威をもってしかりつけ、「黙れ。静まれ」と命じられると湖はたちまちおおなぎになったのだそうです。

 

 この方は、すべての人の望みの神。

受け入れる者を信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、

〔聖である霊」と呼ばれる方によって望みにあふれさせてくださる方(ロマ15:13)。

 

 

 木はどれでも、その実によって良い木か悪い木かわかります。

悪い実を結ぶ良い木はないし、よい実を結ぶ悪い木もないのですね。

 

 そのように、良い人は、その心の良い蔵から良い言葉を出しますが、

悪い人は、悪い蔵から悪い言葉を出すものなのだそうです(ルカ6:43~45)。

だから、蔵(心)が良いか悪いかで、良い言葉が出てくるか悪い言葉が出てくるかが決まってしまうようです。

 

 そして、心の思いは、人の内の〔霊〕から出て来るようです。

心の思いの良し悪しは、その思いがどの霊から来た思いなのかで決まるということのようです。

私たちの〔生まれた時からの霊〕は、アダムのそむきを引き継いでいて、

神と思いを一つにしていく生き方を嫌い、神に対抗し、善悪を自分一人の理性の判断で決める者になっているのだそうです。

 

 それで、この、〔生まれた時からの霊〕から心に来る思いは、神に対抗する思いなのだそうです。

だから、アダムの子孫である私たちが〔良い木〕になるためには、この、〔生まれた時からの霊〕を死んだものとし、天の〔父である神〕と思いを一つにしている、良い、〔新しい霊〕を迎え、この〔新しい霊〕から来る思いで心が満たされなければならないのだそうです。

 

 それで、私たちの〔生まれた時からの霊〕を死んだものとし、〔新しい霊〕、〔聖である霊」と呼ばれる方が私たちに来てくださるために、神の御子である方が、人間イエスとして人の世に来られたのだそうです。

 

 そして私たちすべての人間の身代わりとなって、十字架刑での処刑を受けてくださり、私たちの〔生まれた時からの霊〕を死んだものとし、〔聖である霊〕と呼ばれる方を私たちに派遣してくださる道を開かれたのだそうです。

 

 この方をお迎えし、この方が心に来させてくださる御思いによって生きていくとき、その人は良い言葉を口から出す〔良い木〕ともなり、地面を深く掘り下げ、岩盤の上にまで杭を届かせて家を建てた人のようにもならせていただけるのだそうですね(ルカ6:48~49)。

今日も。

 

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