風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神が住まわれる神殿、神のからだとしてくださり

ソロモンは神殿を献堂して言った。

「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。」列王記上8:27

 

 いまだかって、神を見た者はいない。

父のふところにいる独り子である神、

この方が神を示されたのである。ヨハネ1:18

 

 Ⅰコリント12:19~26

 使徒16:25~40(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/13;木)

 

 ソロモンの栄華と言われる、栄華を極めるそのソロモンが建てた神殿についてさえも、

ソロモンは、「天の神、主、『わたしはあるという者』と名乗られる方をお入れすることはできません」と言うのですね。

天は、天の神、主の王座、地は足台だと仰られる方ですから。

 

 私たち人間は、神をあれこれ考えますが、しかしそれらは、私たち人間の想像、推論あって、必ずしも、神の実態ではないようです。

 

 使徒ヨハネは言います。

「いまだかって、神を見た者はいない。

父のふところにおられる独り子である神、

この方が神を示されたのである」と。

 

 独り子である神、「神のことば」の立場におられる方、その方が人となってこの人の世に来られた。

この方によって私たちは神を体験することになるのだそうです。

 

 そして、このイエスが受けられた十字架刑での処刑に合わせていただいて、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、自分の〔生まれた時からの私〕という霊を、処刑済みのもの、死んだものとしていただき、

三日目に死人の中より新しい霊のからだに復活し、天に帰り、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、

〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えする者は、

神が内に住まわれるところ、神の神殿としていただけるのだそうです。

 

 そして、この方によって〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただき、〔父である神〕と思いを一つにして生きる者は、

神の〔からだ〕と呼ばれ、

〔父である神〕が思われるように生きる者にしていただけるのだそうです。

 

 ちょうど、ある人とそのからだの関係、

からだ、その肢体、手足が、その人の思うように動くように(Ⅰコリント12:19~26)。

 

 私たち一人一人を、神が住まわれる神殿としてくださり、

神のからだの一部、肢体として、御思いを実現していく者にしてくださるのだそうです。

ピリピでのパウロとシラスのように(使徒16:25~40)。

今日も。

 

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