天の神、主の統治の中で
神のしるしは、いかに偉大であり、 不思議な御業は、いかに力あることか。 その御国は永遠の御国であり、 支配は代々に及ぶ。ダニエル書3:33
小さな群れよ、恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。ルカ12:32
マタイ13:44~46 ルカ20:1~8(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句3/22;水)
紀元前600年頃のこと、新バビロニア帝国の第2代目の王、ネブカデネザルは夢を見たのだそうです。 その夢を解き明かしたダニエルは、王に勧告したのだそうです。 「正しい行いによってあなたの罪を除き、 貧しい者をあわれんであなたの咎(とが)を除いてください。 そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう」(ダニエル4:27)と。
12ヶ月の後、ネブカデネザル王は、宮殿の屋上を歩いていたとき、言ったのだそうです。 すると、天から声があったのだそうです。 そして、ダニエルが解き明かした夢のとおりに、ネブカデネザル王は、理性を失い、人間の中から追い出され、野の獣のように過ごすことになったのだそうです。
私たちの理性が正常に働いていることも、天の神、主の許しと支えの中にあることのようですね。 今日、生きていくのに必要なものも、全部、天の神、主が備えてくださったものなのだそうです。だから、何を食べようか、何を着ようかと心配し、気をもむことをやめて、神の国、神の統治、神の働きの現れを求めていくことが良いことなのだそうです。 神様のほうで、与えたくって、私たちが受け取るのを待っていてくださるのだそうですから。
天の御国は、持ち物、全部を売り払ってでも買い取りたい、宝が隠された畑、 今、持っているものを全部売り払ってでも買い取りたい、 素晴らしい値打ちの一つの真珠のように価値のあるもの、なのだそうです(マタイ13:44~46)。
神の知恵は、イエスの十字架刑での処刑による死と復活を通して、受け入れる者に来てくださる神、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、受け入れる者のうちに働き、話すべき言葉も、必要なそのときに示してくださるのだそうです(マタイ10:19)。
エルサレム神殿で、商売人たちを追い出したイエスに、「何の権威によってこれらのことをするのか」と詰問する祭司長たちに、「ヨハネのバプテスマは、天から来たのか、人から出たのか」と質問を切り返されて、相手を黙らせてしまわれたイエスのように(ルカ20:1~8)。 今日も。
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黙って、されるままに、好きなようにさせてくださって
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、
多くの痛みを負い、病を知っている。イザヤ書53:3
ピラトは、
暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを
要求どおりに釈放し、
イエスのほうは彼らに引き渡して、
好きなようにさせた。ルカ23:25
ヨブ記7:11~21
ルカ19:41~48(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/21;火)
〔神の独子(ひとりご)〕であられる方が、人間イエスとして人の世に肉体をもって来られる700年ほど前、〔父である神〕は、アモツの子イザヤを預言者として立て、冒頭の言葉のように、預言しておられました。
預言の言葉はさらに続きます。
「彼は、人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。
しかし、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から絶たれたことを。」(イザヤ53:3~8新改訳)と。
そして、その700年ほど後のこと、
イエスは、ローマからユダヤに派遣されていた総督ピラトの裁判においても、
自分の弁護のために口を開くことなく、黙って祭司長たちの訴えを受けられ、
逆らうことなく、黙って、強盗と殺人の罪で処刑されるバラバが付けられるはずだった十字架に架かってくださったのだそうです。
バラバだけではなく、私たち全部の人間の身代わりとして。
〔父である神〕は、受け入れる者の、神にそむき、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせられたものとして、十字架刑で処刑されたもの、死んだものと手続してくださるのだそうです。
もう処罰するべき罪の残っていない者としてくださったうえで、
もう一人の救い主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、私たちの新しい霊として、受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と思いを同じくし、心を一つにする者にしてくださるのだそうです。
私たちと一つになりたいと願ってくださっているのだそうですから。
ヨブは言います。
「人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを尊び、これを御心に留められるとは」(ヨブ7:17)と。
イエスは、神からの救いを受けようとせず、自分の思いのままに歩み、ついに滅びることになるエルサレムを思って、人々の前であるにもかかわらず、号泣されたのだそうです。
そのように、天の神、主は、私たち一人一人を心に留め、
一人一人と親しく語り合い、交わることを願っていてくださるのだそうです(ルカ19:。41~48)。今日も。
あらゆる恵みを満ち溢れさせて
測り縄は麗しい地を示し、 私は輝かしい嗣業を受けました。詩編16:6
神は、 あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、 あらゆる善い業に満ち溢れるように、 あらゆる恵みを あなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。Ⅱコリント9:8
ルカ14:(25~26)27~33(34~35) ルカ19:28~40(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句3/20;月・祝)
測り縄とは、土地を測量するために用いた縄だそうですが、相続財産として受けた土地は良い所だったというような意味になるでしょうか。
この詩の作者は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を自分の相続財産としていて、自分はすばらしい良い相続財産を得た幸いな者だとうたっているようです。
「私はいつも、私の前に主を置いた。 主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。 私の身もまた安らかに住まおう」(詩篇16:8~9新改訳)と。
また、この方、天の神は、恵みのプレゼントを満ち溢れさせ、私たちに、善い業ができるようにしていてくださる方なのだそうですね。
イエスは、「自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子となることはできません」(ルカ14:33)と言われました。
ロシアの文豪、トルストイは、裕福な地主でしたが、自分の力でこのイエスの言葉のような生き方をしようと真面目に取り組み、畑を小作人に分け与え、なお、平安がなく、苦しんだ人だそうです。
イエスは、搭を築こうとするとき、 まずすわって、完成に十分な金があるか、よく計算したうえで取りかからないと、基礎を築いただけで完成できないようなことになり、 人々から『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言われることになる。
また。王が、ほかの王と戦いを始めようとするとき、2万人を引き連れて向かって来る敵を、1万人で迎え撃つことができるかどうか、まずすわってよく考え、もし、見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求める。
そのように、神のことば、律法を、自分の力でやりとおせるものか、まずすわってよく考え、もし、自分には手に余る、完成できないものであるなら、十字架に架かるために進んでいるイエスに、自分の十字架を負って処刑場に向かってついて行く者に、 そして、イエスの十字架刑での処刑が終わっている今は、 イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、自分を処刑された者、イエスの十字架で死んだ者としていただきなさい、と言っておられるようです(ルカ14:27~33)。
〔父である神〕は、この、イエスの十字架刑での処刑に自分を合わせていただいて、〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしていただいた者に、新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、受け入れる者が、この方から来る、〔父である神〕の御思いによって生きるようにしてくださるのだそうです。
私たちにも、善い業ができるよう、あらゆる恵みを用意してくださって。 今日も。
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始められた善い業を完成してくださるのですね。必ず。
天の神、主のまことの中を
顔と顔を合わせて見る、そのときを
神は、夏の暑さの中で、水を求めて川にたどり着いてみると、水がない、かれてしまった川のように、当てにならない方のように思えるときが。
けれども、顔と顔を合わせて見る、はっきりとした事実として体験する「そのとき」が来るのだそうです。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。
――主のみ告げ――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31~33新改訳)
〔御子である神〕と呼ばれる方が、天の栄光の座を後にして、人となって人の世に来られ、十字架刑での処刑を受けて(ルカ18:31~33)、私たちの汚れ、罪を処分してくださり、
約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださっている今は、
この出来事を受け取った者は、心に、神の愛の思いが来て、イエス様のように、〔父である神〕の御思がわが思いとなって生きるはずなのですね(Ⅰヨハネ2:3~6)。
御思いに、心を潜めて
私の目は夜警に先立ち、
あなたの仰せに心を砕きます。詩編119:148
マリアはこれらの出来事を
すべて心に納めて、思いめぐらしていた。ルカ2:19
ヨハネ16:29~33
レビ記25:35~43(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/15;水)
朝の時を、夜明けの見張りよりも先に目覚め、天の神、主がおっしゃること、この方の御思いに心を向け、思いを潜めるのだそうです。
この方の御思いの中に心がおおわれ、沈められ、漬け込まれて。
イエスの母、マリアが、生まれたばかりのイエスを拝みに来た羊飼いから聞いた、天使が現れた出来事などを心に納めて、思いめぐらしていたように。
そうすることで、私たちも天の神、主と思いを一つにし、心を一つにし、神である主がいっしょにいてくださることを深く身に受け、イエスの勝利の中に置いていただいていることを強く受けていくことになるようです(ヨハネ16:32~33)。
イエスの命を代価として贖(あがな)われ買い戻され、神の子、神の家族、神の民としていただいている身分(レビ25:42)を確認しながら。
今日も。