風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

眠ることもなく、まどろむこともなく、見守ってくださりながら。

どうか、主があなたを助けて、
足がよろめかないようにし、
まどろむことなく見守ってくださるように。詩編1213
 
 イエスはすぐ手を伸ばしてペトロを捕まえ、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。マタイ1431
 
 ヨハネ62635
 ルカ204147(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/27;月)
 
 私たちの助けは、天と地を造られた主から来るのだそうです。
この方は私たちの足をよろめかないようにと、
まどろむことなく、眠ることなく見守っていてくださる方なのだそうですから。
 
 イエスは、ヘロデ王が、捕えていたバプテスマのヨハネの首をはねたことを聞き、舟で寂しい所に行かれたのだそうです。
けれども、群衆は歩いてイエスのあとを追って来たのだそうです。
それで、イエスは、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされたのだそうです。
 
 陽が西に傾いて来て、手元には、パンが五つと魚が二匹しかなかったのに、イエスは彼らを空腹のまま帰らせるのはかわいそうに思い、
群衆を草の上に座らせ、
その五つのパンと二匹の魚を祝福して裂き、弟子たちが群衆に配ったので、群衆は食べて満腹し、残ったパン切れを集めると12のかごにいっぱいになったのだそうです。
女と子どもを除いて、男5千人ほどいたのだそうですが。
 
 そして、イエスは、弟子たちを強いて船に乗り込ませて向こう岸へ行かせ、ご自分は一人残って祈っておられたのだそうです。
 
 弟子たちは、風が向かい風なので波に悩まされていたのだそうですが、
夜中の3時頃、イエスが湖の上を歩いて彼らのところに行かれたので、弟子たちは幽霊だと思い、恐ろしさのあまり叫び声を上げたのだそうです。
イエスが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われると、
ペテロが「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言ったので、
イエスが「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から出て、イエスのほうへ行ったのですが、風を見てこわくなり、沈みかけ、「主よ。助けてください」と言ったので、イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかんでくださったのだそうです(マタイ14131)。
 
 私たちも、沈みかけるようなときにも、ペテロのように、「主よ。お助け下さい」というと、眠ることもなく、まどろむことなく、近くにいてくださる方は、私たちの手をつかんで引き上げてくださるのですね。
 
 群衆は、イエスがなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエスをむりやり連れて行って王としようとしたのだそうです(ヨハネ61415)。
 
彼らが、向こう岸、カペナウムでイエスを見つけたとき、イエスは彼らに言われたのだそうです。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子(イエス御自身)があなたがたに与えるものです。
神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。
わたしの父は、天から真のパンをお与えになります。
神のパンは、天から下って来て、世に命を与えるものだからです。
わたしがいのちのパンです。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ62235)と。
 
 そして、この後のやりとりで、多くの者がイエスから去って行ったのですが、
父である神は、自分の考えに合わないからと去っていく者ではなく、イエスの言葉に信頼して、イエスこそ、天から下って来た、永遠の命を与えるパンであることを知って、いのちを得る者になって欲しいと願っておられるのだそうです。
眠ることも、まどろむこともなく、見守っていてくださりながら。
今日も。
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希望があるのだそうです。私たちの未来にも。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。ヨハネ12243/26の週の聖句)
 
 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。エレミヤ書3117
 
 近所の人々や、
彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、
「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」
と言った。ヨハネ98
 
 ヨハネ122026
 詩編84(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/26;日)
 
 一粒の麦が地に落ちて死ぬことで、多くの実を結ぶように、イエスは、ご自分のからだを差し出し、預言のとおりに十字架刑で処刑され、死ぬことによって、多くの新しいいのちが生きる道を開かれたのだそうです。
 
 私たちも、自分のいのちを愛し、自分をどこもまでも保とうとするならば、このイエスの死による救いを不要なものとして無視し、結果として自分を滅ぼし、そのいのちを失うことになるのだそうです。
 
 しかし、もし、自分のいのち、
[「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3522)になっている〔生まれたときからの私〕という霊]は、
造り主である神に逆らい、自分を滅びに至らせてしまう、自分を不幸にするものであることを知って、その自分を憎む者は、
イエスの十字架刑での処刑に、その自分を重ね合わせて、処刑が終わっているものとしてくださる、〔父である神〕からのプレゼントを受け取ることによって、永遠のいのちをいただく、受け取る者になるのだそうです。
 
 私たちも、私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、一粒の麦のように、死んだものとしていただくなら、
新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣していただけて、
この方によって、
〔父である神〕を愛し、
〔父である神〕の御思いのように生きたいと願うようになり、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただけて、
〔父である神〕と思いを一つにして、
〔父である神〕が私を通してしようと思っておられることをしていく者にしていただけるのだそうです。
 
 それで、私たちも、あの、イエスに見えるようにしていただいた、生まれつき目が見えなかった人のように(ヨハネ9138)、
イエスの御思いについて行く者となり、
家族や近所の人など、自分のことをよく見、知っている人たちに、イエスの御業の証拠となり、
多くの新しいいのちを起こしていく者ともしていただけるようです。
 
 私たちの未来には、希望があるのですね。
ひとりの女が一人の男に嫁ぐように(エレミヤ3122)、
天の神、主と一つになる関係に入れていただき(創世記126、ヨハネ172123)、
「万軍の主。
あなたのお住まいは、なんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。
私の心も、身も、生ける神に喜びの歌をうたいます」(詩篇8412新改訳)と歌う者にしていただけるのだそうですから。
この新しい週も。
 
 
 
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イエスを死者の中から復活させ、天上のあらゆる名の上に置かれて

この事を起こし、成し遂げたのは誰か。
それは、主なるわたし。
初めであり、後の代と共にいるもの。イザヤ書414
 
 神は、キリストを死者の中から復活させ、
天において御自分の右の座に着かせ、
すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、
今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられる
あらゆる名の上に置かれました。エフェソ書12021
 
 ガラテヤ書6:(11131418
 ルカ202740(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/25;土)
 
 この事、直接的には、メディア・ペルシャの王クロスが勝利に勝利を重ね、ついにはバビロンを滅ぼす、そのことをさしているようです。
そして、これを起こし、成し遂げるのはわたしだと、天の神、主は仰るのですね。
 
 さらには、御子である神を、人間イエスとして人の世に遣わし、
この方を、ユダヤの指導者たちの妬みにより、
ローマの権威のもとで、反逆者として十字架刑で処刑し、
この方を三日目に使者の中から復活させ、
天の、御自身の右の座に帰らせ、
すべての天使たちの上に置き、
あらゆる名の上に置いたのは〔わたし〕だ、と。
 
 さらには、受け入れる者を、このイエスの十字架刑での処刑に重ね合わせて、受け入れる者の〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとし、
受け入れる者に、ご自身の右の座におられる、御子である神・イエスを通して、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、受け入れる者の心に、ご自身の、一人一人に対して思っていらっしゃる御思いを置き、
受け入れる者がご自身と思いを一つにし、心を一つにする者となり、ご自身の御思いによって生きるようになる、
その、受け入れる者が、自分に死に、新しい霊で生きるという新創造の道を開き、成し遂げたのは〔わたしたち〕(創世記126、ヨハネ172122)だとおっしゃるのですね。
私たちへの、人間に対する愛の熱心において。
 
 それで、この、イエスによって成し遂げられた御業をいただく者は、
死者の中からの復活と来たるべき世、やがて実現する新しい世界を受け継ぐ希望に生き、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕と心を一つにするという新創造の中を生きるのだそうです(ガラテヤ615、ヨハネ3:3)。
今日も。
 
 
 
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知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊が来てくださって

彼は弱い人のために正当な裁きを行い、
この地の貧しい人を公平に弁護する。イザヤ書114
 
 イエスの言葉:
貧しい人々は、幸いである。
神の国はあなたがたのものである。ルカ620
 
 マタイ1034
 ルカ202026(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/24;金)
 
 エッサイダビデ王の父親の根株から生え出た新芽、
その根から出た若枝として来られた方、イエス。
 
 その方の上に主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の霊がとどまるというのですね。
その方は、知恵と悟りの霊、
はかりごとと能力の霊、
主を知る知識と主をおそれる霊である。
この方は主をおそれることを喜び、
その目の見るところによってさばかず、
その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄る辺のない者をさばき、
公正をもって国の貧しい者のために判決を下すのだそうです(イザヤ1114新改訳)。
 
 そして、700年ほど後のこと、バプテスマのヨハネは、
「御霊が鳩のように天から下って、イエスの上にとどまられる」のを見て、イエスを神の子、
「世の罪を取り除くために、神にささげられる犠牲の小羊」、
聖霊によってバプテスマを授ける方」と世に紹介したのだそうです(ヨハネ12934)。
 
 イエスご自身が言われます。
「貧しい人々は、幸いである。」
なぜなら、「神の国はあなたがたのものだから」と。
 
霊が、心が貧しく、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている自分自身からは、神が言われるように生きようと願っても、それを実行する力がなく、
したくないはずの神に背くこと、神に対抗する生き方をしてしまう者である(ロマ71424)ことが分かって、
神の前に差し出せる善いものが何もないことを認めて、
物乞いのように、
神の憐れみによる恵みのプレゼントをもらっていく、
受け取っていく者は幸いだ、というのですね。
 
 その人は、自分自身をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、〔生まれたときからの私〕という霊を処刑済みのもの、死んだものと見なしていただき、
新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
新しく生まれた者として生きる(ヨハネ3:1~13)者にしていただけるのだそうですから。
 
 受け入れる者のうちに来られた〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たち一人一人に対する〔父である神〕の御思いを、受け入れる者の心に置いてくださるので、
受け入れる者は、自分のうちの〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いは、死んだ者から来た思いだ、として、これは、神様のみ前に投げ捨て、
〔聖である霊〕から来る〔父である神〕の御思いについて行く、
新しい生き方ができるようになるのだそうですから。
 
 それで、神の国、天の神、主の統治が、その人に及ぶようになるというのですね。
 
 イエスが処刑される前は、「自分が処刑されるその十字架を負って」、処刑場へとイエスのあとについて行く(マタイ1038)。
 
 そして、イエスの十字架刑での処刑が完了している今は、自分自身である〔生まれたときからの私〕という霊は十字架刑で処刑されたもの、死んだもの、として、新しい霊によって生きるのだそうです。
 
 そのように、心の、霊の貧しい者、自分自身では神の前に差し出す善いことは実行できない者であることを認め、
神からの、イエスの十字架刑での死によるプレゼントを受ける者は、
神の統治の中で、神がしようと計画しておられることの、私の部分を実行していく者となるのだそうです。
 
 そして、イエスの反対者がイエスを捕える口実を見つけようとして、
「私たち(神の民であるユダヤ人)が、カイザルローマ皇帝に税金を納めることは、律法に適っているでしょうか」とイエスに質問させたとき、
イエスは、質問者に、デナリ銀貨(ローマの貨幣)を出させて、
デナリ銀貨に刻まれているローマ皇帝テべリオの肖像を示し、
「カイザルローマ皇帝のものはカイザルローマ皇帝に、
神のものは神に返しなさい」と答えたので、
反対者たちは驚嘆して黙ってしまった(ルカ202026)のだそうです。
 
〔聖である霊〕による〔父である神〕の御思いによって生きる者も、
このイエスのように、神の知恵をいただけるのだそうです。
前もっていっぱいではなく、
必要な、そのとき、そのときに、必要な分を(マタイ101920)。
今日も。
 
 
 
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回復し、建て直してくださり

お前たちの周囲に残された国々も、
主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、
荒れ果てていたところに植物を植えたことを
知るようになる。エゼキエル3636
 
 シメオンの祈り:
私はこの目であなたの救いを見ました。
これは万民のための救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。ルカ23032
 
 マタイ191626
 ルカ20919(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/23;木)
 
 「われわれのかたちとして、われわれに似せて」人を造られた(創世記126)、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3522)、
神の民となる契約を結びながら(出エジプト19382438)、天の神、主と思いを一つにしようとせず、
自分の理性による善悪の判断のままに、自分の好む神を拝み、これに仕える、ご自身の民に、何度も、預言者を送り、御自身に立ち返るよう説得されたのだそうです。
 
 けれども、彼らは、この勧めを聞こうとせず、
いよいよ、自分の善いとする道を歩むばかりだったので、
このまま進んで行って、いよいよそむきが強くなり、
最終的に全部滅ぼしてしまうことにならないようにと、
バビロンの王、ネブカデネザルを用いてエルサレムを攻めさせ、
これを破壊し、荒れ果てたところとし、民をバビロンの捕囚とされたのだそうです。
 
 けれども、それは、滅ぼすことが目的ではなく、
民を建て直そうとしておられるのであって、
このようにエゼキエルをとうしても、民を打つことを伝えながら、
同時に回復の預言を与え、希望を与えようとしておられるのですね。
 
 そして、預言の言葉のとおりに70年の捕囚の時を経て、
天の神、主は、クロスをペルシャの王として立て、
彼によって民をエルサレムに帰還させ、これを再建されたのだそうです。
 
 この時から、550年ほどの時を経た、エルサレム神殿において、
シメオンは、モーセの律法に従って神のものとしてささげられるために来たイエスを抱き上げ、
イエスはまだ生後40日ほどの赤ん坊であるにもかかわらず、
「私はこの目であなたの救いを見ました」と、神に感謝の祈りをささげたのだそうです。
 
 〔父である神〕は、このイエスを、およそ33歳の頃、
すべての人の身代わりとして、すべてのそむきの責任を負わせて十字架刑で処刑し、
受け入れる者を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものとしてくださって、
律法の罰則の要求から解放してくださるのだそうです。
 
 そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって(ヨハネ14:16)、
エゼキエルに与えられた預言のとおりに、
この方によって受け入れる者の心に、ご自身の御思いを置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、
御自身がその人を通してしようと思っておられることを自発的にしていく者にしてくださるのだそうです(エゼキエル362528)。
 
 ある金持ちの青年が、イエスに、「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたらいいのでしょうか。モーセの律法はみんな守っています」と問うた時、
イエスは、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい」と答えられ、
この青年は悲しみながら去って行ったのだそうです(マタイ191622)。
 
 私たち、この青年のようにイエスのもとから去って行くのではなく、
永遠の命を受けるのにふさわしいほどの良いことができない者であることを認めて、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものとしていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに
ついて行く者にしていただけるのだそうですね。
 
 神からの使いを無視し、侮辱し、殺し、最後に遣わされて来た御子をさえ殺してしまう、
あのぶどう園の農夫のような者なのに(ルカ20918)。
今日も。
 
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天の神、主の統治の中で

神のしるしは、いかに偉大であり、

不思議な御業は、いかに力あることか。

その御国は永遠の御国であり、

支配は代々に及ぶ。ダニエル書3:33

 

 小さな群れよ、恐れるな。

あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。ルカ12:32

 

 マタイ13:44~46

 ルカ20:1~8(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/22;水)

 

 紀元前600年頃のこと、新バビロニア帝国の第2代目の王、ネブカデネザルは夢を見たのだそうです。

その夢を解き明かしたダニエルは、王に勧告したのだそうです。

「正しい行いによってあなたの罪を除き、

貧しい者をあわれんであなたの咎(とが)を除いてください。

そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう」(ダニエル4:27)と。

 

12ヶ月の後、ネブカデネザル王は、宮殿の屋上を歩いていたとき、言ったのだそうです。
「この大バビロンは、私の権力によって、私が建てたものではないか」と。

すると、天から声があったのだそうです。
「ネブカデネザル王。あなた告げる。
国はあなたから取り去られた。
あなたは人間の中から追い出され、
野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、
こうして7つの時があなたの上を過ぎ、
ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、
その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる」と。

そして、ダニエルが解き明かした夢のとおりに、ネブカデネザル王は、理性を失い、人間の中から追い出され、野の獣のように過ごすことになったのだそうです。
そして、夢のとおりに、7年間の期間が終わり、理性が戻り、王の座に復帰したとき、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を、冒頭の言葉のように賛美したのだそうです。

 

 私たちの理性が正常に働いていることも、天の神、主の許しと支えの中にあることのようですね。

今日、生きていくのに必要なものも、全部、天の神、主が備えてくださったものなのだそうです。だから、何を食べようか、何を着ようかと心配し、気をもむことをやめて、神の国、神の統治、神の働きの現れを求めていくことが良いことなのだそうです。

神様のほうで、与えたくって、私たちが受け取るのを待っていてくださるのだそうですから。

 

 天の御国は、持ち物、全部を売り払ってでも買い取りたい、宝が隠された畑、

今、持っているものを全部売り払ってでも買い取りたい、

素晴らしい値打ちの一つの真珠のように価値のあるもの、なのだそうです(マタイ13:44~46)。

 

 神の知恵は、イエスの十字架刑での処刑による死と復活を通して、受け入れる者に来てくださる神、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、受け入れる者のうちに働き、話すべき言葉も、必要なそのときに示してくださるのだそうです(マタイ10:19)。

 

エルサレム神殿で、商売人たちを追い出したイエスに、「何の権威によってこれらのことをするのか」と詰問する祭司長たちに、「ヨハネバプテスマは、天から来たのか、人から出たのか」と質問を切り返されて、相手を黙らせてしまわれたイエスのように(ルカ20:1~8)。

今日も。

 

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黙って、されるままに、好きなようにさせてくださって

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、

多くの痛みを負い、病を知っている。イザヤ書53:3

 

 ピラトは、

暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを

要求どおりに釈放し、

イエスのほうは彼らに引き渡して、

好きなようにさせた。ルカ23:25

 

 ヨブ記7:11~21

 ルカ19:41~48(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/21;火)

 

 〔神の独子(ひとりご)〕であられる方が、人間イエスとして人の世に肉体をもって来られる700年ほど前、〔父である神〕は、アモツの子イザヤを預言者として立て、冒頭の言葉のように、預言しておられました。

 

 預言の言葉はさらに続きます。

「彼は、人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。

彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。

しかし、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 

彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれていく羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。

彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、

生ける者の地から絶たれたことを。」(イザヤ53:3~8新改訳)と。

 

 そして、その700年ほど後のこと、

イエスは、ローマからユダヤに派遣されていた総督ピラトの裁判においても、

自分の弁護のために口を開くことなく、黙って祭司長たちの訴えを受けられ、

逆らうことなく、黙って、強盗と殺人の罪で処刑されるバラバが付けられるはずだった十字架に架かってくださったのだそうです。

バラバだけではなく、私たち全部の人間の身代わりとして。

 

 〔父である神〕は、受け入れる者の、神にそむき、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせられたものとして、十字架刑で処刑されたもの、死んだものと手続してくださるのだそうです。

 

 もう処罰するべき罪の残っていない者としてくださったうえで、

もう一人の救い主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、私たちの新しい霊として、受け入れる者に派遣してくださり、

この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と思いを同じくし、心を一つにする者にしてくださるのだそうです。

私たちと一つになりたいと願ってくださっているのだそうですから。

 

 ヨブは言います。

「人とは何者なのでしょう。

あなたがこれを尊び、これを御心に留められるとは」(ヨブ7:17)と。

 

 イエスは、神からの救いを受けようとせず、自分の思いのままに歩み、ついに滅びることになるエルサレムを思って、人々の前であるにもかかわらず、号泣されたのだそうです。

 

 そのように、天の神、主は、私たち一人一人を心に留め、

一人一人と親しく語り合い、交わることを願っていてくださるのだそうです(ルカ19:。41~48)。今日も。

 

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