風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

モーセのように、御顔を仰ぎ見、口と口で語っていただける者に

お前たちの罪が恵みを退けたのだ。エレミヤ書5:25 

 

徴税人は遠くに立って、
目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
「神様、罪びとの私を憐れんでください。」
ルカ18:13

 イザヤ書26:1~6
 民数記12:1~16(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/2;土)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方はエレミヤを通して言われます。

エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。
その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、

わたしはエルサレムを赦そう。
たとい彼らが『主は生きておられる』と言っても、

実は、彼らは偽って誓っているのだ。」

主よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか。
あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。
彼らを断ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。
彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。
身分の高い者のところへ行っても、彼らもみな、くびきを砕き、縄目を断ち切っていました。

「彼らが多くの罪を犯し、その背信ははなはだしかった。
これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう。
あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。
わたしが彼らを満ち足らせたときも、彼らは姦通し、遊女の家で実を傷つけた。
彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、おのおの隣の妻を慕っていななく。
これらに対して、わたしが罰しないだろうか。
 ――主の御告げ―― 
このような国に、わたしが復讐しないだろうか。
イスラエルの家とユダの家とは、大いにわたしを裏切った。
 ――主の御告げ―― 
彼らは主を否んでこう言った。
『主がなんだ。わざわいは私たちを襲わない。
剣も飢饉も、私たちは、見はしない。』


 イスラエルの家よ。
見よ。わたしはあなたがたを攻めに、遠くの地から一つの国民を連れて来る。
 ――主の御告げ―― 
それは古くからある国、昔からある国、その矢筒は開いた墓のようだ。
彼らはみなつわもの。
彼らはあなたの借り入れたものと、あなたのパンを食らい、
あなたの息子、娘を食らい、
あなたの羊の群れと牛の群れを食らい、
あなたのぶどうと、いちじくを食らい、
あなたの拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。

しかし、その日にも
 ――主の御告げ―― 
わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。」

 

 「あなたがたが、『何のために、私たちの神、主は、これらすべてのことをしたのか』と尋ねるときは、
あなた(エレミヤ)は彼らにこう言え。
『あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、
あなたがたの国でない地で、他国人に仕えるようになる。』

 

 この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らはそむいて去って行った。
彼らは心の中でも、こう言わなかった。
『さあ、私たちの神、主を恐れよう。
主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節に従って与え、
刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる』と。
あなたがたの咎(とが)が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ」と。

 

 

 それで、そのバビロンの捕囚を経て、
そのような者になるまいと、
今度は、自分の力で神の戒めを守り、神に熱心な者になろうと一生懸命に努力する人たちが起こったのだそうですが、
その人々も、神のお心を求めるのではなく、
自分の理性の善悪の判断で、自分の善しとするところを行うばかりで、
神の御心からは遠く離れ、
神に仕えているつもりで、ついには、神が遣わされた方を拒否し、殺すことにもなったのだそうです。

 

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれた時からの私〕という私自身は、
このように天の神、主に逆らい、対立、対抗する者であることを認めて、
あの取税人(徴税人)のように、「神様、罪びと(的外れ)の私をお赦しください」と、
天の神、主の憐れみにすがっていいのだそうです。

 

 この方に信頼して(イザヤ26:4)、この方が用意してくださっている、イエスの十字架刑での処刑に自分を合わせていただき、
〔生まれた時からの私〕という私自身である霊を処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうですから。

 そして、三日目に死者の中から復活し、天の、父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕の私たち一人一人に対する御思いを、私たちの心に置いてくださり、
私たちが〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になるようにしてくださるのだそうですから。

 それで、私たちも、〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者ともしていただけて、

モーセのように、天の神、主に忠実な者、天の神、主が口と口とで語ってくださる、御顔を仰ぎ見る者(民数記12:7~8)ともしていただけるのだそうですから。
今日も。

 

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あなたは神。大地が、人の世が生み出される前から、とこしえに

主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。
山々が生まれる前から、
大地が、人の世が、生み出される前から、
世々とこしえに、あなたは神。
詩90:1~2

 私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、
万物はこの神から出、
私たちはこの神のためにあるのです。
Ⅰコリント8:6

 ルカ22:54~62
 民数記11:24~35(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/1;金)

 モーセは言います。

「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。

山々が生まれる前から、

あなたが地と世界とを生み出す前から、

まことに、とこしえからとこしえまで、

あなたは神です」(詩篇90:1~2新改訳)と。


 使徒ヨハネはイエスについて記しています。

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。

この方は、初めに神とともにおられた。

すべてのものは、この方によって造られた。

造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

~~~

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方の栄光を見た。

父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:1~3、14新改訳)。

 

 創世記1章1節~5節には、

「初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。
やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」
すると光があった。
神は光を見て良しとされた。
神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名付け、やみを夜と名付けられた。
夕があり、朝があった。第一日」と記されています。

 この方が生けるまことの神。天地、万物はこの方の御思いから発し、
御思いのとおりに創造されたのだそうです。

 

 イエスが、「シモン、シモン(ペテロの本名、「ペテロ」はイエスが付けたあだ名)。見なさい。
サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたとき、
12弟子のひとりのペテロは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と答えたのだそうですが、
それに対して、イエスは言われたのだそうです。
「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と。

 

 そのあと、ペテロが、捕らえられたイエスの後を、遠くからついていって、大祭司の庭で火にあたっている下役たちの中に紛れ込んで座っていると、女中や下役の男から、「おまえも、イエスと一緒にいた」と言われ、「私はその人を知りません」と否定したのだそうですが、
三度目に、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言ったとき、鶏が鳴いたのだそうです。
エスは、振り向いてペテロを見つめられ、
ペテロは、外に出て、激しく泣いたのだそうです(ルカ22:54~62)。

 

 

 エジプトを出たイスラエルの民が、荒野の生活の中で、
「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたころを思い出す。
きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも」と、自分の天幕の入り口で大声で泣いたのだそうです。

それで、モーセが、天の神、主に、「私だけでは、この民を負うことはできません」と訴えると、
主は、モーセに民に告げるよう言われたのだそうです。

「あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。
あなたがたが食べるのは、一日や二日ではなく、一か月もである」と。

モーセが、「私とともにいる民は徒歩の男子だけで60万です。
羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らには十分でしょうか」と答えると、
主は答えられたのだそうです。
「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と。
そこで、モーセは出て行って、主のことばを民に告げたのだそうです。

 

そして、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んできて、宿営の上に落としたので、民はその日も、その翌日もうずらを集めたのだそうです(民数記11:24~35)。

 

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方、唯一の生けるまことの神、
この、全知にして全能の方が、私たちの父となってくださり、私たちと一緒にいてくださるのだそうです。
「わたしに、あなたの顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ」(雅歌2:14)と。
今日も。

 

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滅びることのない主権、永遠に統治される方と

この神は生ける神、
世々にいまし、
その主権は滅びることなく、
その支配は永遠。
ダニエル書6:27

 父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
ルカ11:2

 ヨハネ8:3~11
 民数記10:11~36(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句8/30;水)

あなたを捨てる者は皆、
辱めを受ける。
生ける水の源である主を捨てたからだ。
エレミヤ書17:13

 もう用意ができましたから、おいでください。ルカ14:17

 Ⅰペトロ5:1~3
 民数記11:1~23(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句8/31;木)


 神々と呼ばれているものはたくさんあります。
しかし、この方こそ、生けるまことの神。世々にいます方。
わたしは初めであり、終わりである。アルファであり、オメガであると言われる方。
すべてのことに主権を主張でき、永遠に支配される方。

 

 

律法学者、パリサイ人たちが、姦淫の現場で捕まえた女性を連れて来て、イエスの足元に置き、
モーセはこのような女を石で打つように命じましたが、あなたは、どうされますか」と迫ったとき、
この方は、「あなたがたのうちで、罪のない者が最初に石を投げなさい」と答えられ、
ひとり残されたその女性に、
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」と、問い、
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われたのだそうです(ヨハネ8:3~11)。


この方を捨てる者は、生ける水の源である方を捨てて、
水を溜めることのできない水溜を掘るようなものなのだそうです。 

 それは、また、盛大な宴会に招かれていながら招きを断ってしまう人のようでもあるようです。

この方の、子どもにしようとの招きに応じて、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれた時からの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものとしていただき、
そのイエスが派遣してくださる、〔子としてくださる御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
子どもにしていただき、〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と一つ心にしていただく者は、
「父よ、御名が崇められますように。御国(支配、統治)が来ますように」と願っていく者となり、
大牧者であるイエスが現れるとき、しぼむことのない栄光の冠を受ける(Ⅰペテロ5:4)のだそうです。

そのゴールを見据えながら、目の前の一歩を踏み出して行くのですね。
今日も。

 

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自分の正しさを主張し、相手に不当を認めさせ、償わせたい思いが噴き出して来ますが

「人が私にするように、私もその人に対ししてしよう。
それぞれの行いに応じて報いよう」とは、
あなたの言うべきことではない。
箴言24:29

 一日に7回あなたに対して罪を犯しても、
7回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、
赦してやりなさい。
ルカ17:4

 サムエル記上17:38~51
 民数記9:15~23(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句8/29;火)

「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」(出エジプト21:24)と言われています。
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている者は、倍返しの復讐、
倍では気が済まなくて、7倍にして、あるいは77倍にして返したい者(創世記4:24)ですが、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、復讐は、受けた被害と同じところまで、とおっしゃるのですね。
歯を1本おられたら、歯、1本まで、目を片目つぶされたら、目を片目までと。

けれども、本当のお心は、「彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行いに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない(新改訳)ということのようですね。

 さらに、イエスは、仕返しをしないで、赦してやりなさいと言われます。
それも、「仏の顔も三度まで」ではなく、一日で七度、さらに、7を70倍するまで(マタイ18:22)と。

 さらに、パウロを通して言われます。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
『復讐は、わたし(天の神、主)のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』(申命記32:35)。
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ12:19~21)と。

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれた時からの私〕という私自身は、
どこまで行っても、あの、ガテのペリシテ人ゴリアテのように、天の神、主に対立、対抗して、
自分の理性での善悪の判断のとおりをやって行こうとするばかりのもので、
努力して、表面上は赦したように振舞っても、
心の底には、倍返しの復讐、7倍の復讐をしないと気が済まない思いがうごめいています。

 だから、ゴリアテダビデによって首をはねられたように(サムエル上17:38~51)、この、私自身である、〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものとしていただきなさいと言われるのですね。

 そして、そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて(エレミヤ31:33)、
心を一新していただき(ロマ12:2)、
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来た〔父である神〕の御思いによって進む者としていただきなさい(ガラテヤ5:25)と。

 

 エジプトを出たイスラエルの民が、荒野の40年の生活で、
幕屋の上にある「雲の柱」によって導かれるとおりに、
主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立ったように(民数記9:15~23)。

 私たちも、復讐は、「わたしが復讐する」と言われる方にお任せして、
自分にされた不当な扱いを赦し、善をもって悪に勝つ思いを心に置いていただいて、。
今日も。

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イエスが来られる、その日までは

主は地上をすべて治める王となられる。
その日には、主は唯一の主となられ、
その御名は唯一の御名となる。
ゼカリヤ書14:9

 キリストは神の身分でありながら、
神と等しいものである事に固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
フィリピ書2:6~7

 マタイ23:1~12
 民数記6:22~27(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/27;月)

神の身分である方、〔御子である神〕の位にある方が、その位に固執しようとは思わず、
神のあり方を捨て、ご自分を無にして、しもべ、仕える者の姿をとり、
人間と同じ者になられて、人の世に来て下さり、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのだそうです。

 それで、〔父である神〕は、この方を、死者の中から復活させ、
高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのだそうです(ピリピ2:6~9)新改訳)。

今から2000年ほど前、旧約聖書で預言されているとおりに、
私たち、すべての人間の「的外れ」、そむきの責任を自分の身に負って十字架刑での処刑を受けるために来られたこの方は、
今度は、正義と公正とあわれみとをもたらすため、地上のすべてを治める王として地の上に立たれるのだそうです。

ゼカリヤ書には次のように預言されています。
「見よ。主の日が来る。その日、~~

わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。
町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。
町の半分は捕囚となって出て行く。
しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。

主が出て来られる。
決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。
山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。~~

私の神、主が来られる。
すべての聖徒たちも主とともに来る。
その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
これはただ一つの日であって、これは主に知られている。
昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる
主は地のすべての王となられる。
その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる」ゼカリヤ14:1~9新改訳)と。


私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5:22)、〔生まれた時からの私〕という霊のままでは、
自分を高めよう、善いものになろう、神のことばのとおりに生きようと思っても、
努力すればするほど、あの、律法学者、パリサイ人たち(マタイ23:1~12)のように、
人の目を気にし、人の評判を得ようとするばかりの、言うばかりで実行しない者であるしかないのだそうです。
だから、この、私自身である、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んでしまったものとしていただき、
このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、私たち一人一人に思っておられる、〔父である神〕御思いを心に置いていただいて、
この、心に来た〔父である神〕の御思いを自分の思いとして生きる。
心を一新していただき、新しい霊によって生きる者にしていただけるのだそうです。

そのとき、私たちも、イエスがそうであったように、
一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにし、
何事も自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思い、
自分のことだけではなく、他の人のことも考える(ピリピ2:1~4)思いが心に来て、
周りに神の祝福を届ける者にもしていただけるのだそうです。

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安をあたえられますように」(民数記6:24~26)と。

主が来られるその日まで。
今日も。

 

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うちにおられる方が分かる者に

神は高慢な者を敵とし、
謙遜な者には恵みをお与えになる。Ⅰペテロ5:5(8/27の週の聖句)

 信じなければ、あなたがたは確かにされない。イザヤ書7:9

 信仰をもって生きているかどうか
自分を反省し、自分を吟味しなさい。
あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。
イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。
Ⅱコリント13:5

 ルカ18:9~14
 詩17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句8/27;Ⅳ日曜)

私たちは、神の前に立って、
「私はこれだけ信仰しています。ちゃんとやっています。
どうです。見てください」と言いたい者であり、
そのように言えるようになろうと努力しています。

エスは話されました。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、
ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。
私は週に二度断食をし、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:9~14)と。

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たちは、
このパリサイ人のように言える者になりたいのですね。信仰においても。
「私は自分の力でちゃんとやれます。正しく生きられます。
だから、あなたがイエスによって用意した救いなど、私には必要ありません」と言える者に。

けれども、その在り方こそが、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と仰られ、
「私たちが、愛し合い、一つになっているように、私たちと愛し合って一つになる者を」(ヨハネ17:21~24)と願われた、天の神、主の創造の目的から「的外れ」になっている在り方であることを認めて、
その場所から、この取税人のように、ただ、神のあわれみにより頼む、
その場所で、イエスの十字架刑での処刑による救いを受け取ることができるのだそうです。

そして、墓に葬られ、三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しいからだに復活され、
40日に渡って弟子たちに何度も現れて神の国のことを語り、
弟子たちの見ている前で、オリーブ山から、
天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が受け入れる者の心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに従って生きようとする心にも。

〔父である神〕の御思いが心に来る、そのことで、私たちは、イエス・キリストと一つになっていらっしゃる〔聖である霊〕と呼ばれる方が自分のうちにおられることが分かるのだそうです。

私たち自身も、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対抗して、
このパリサイ人のように言いたい者であることを認めて、
その場所で、この取税人のように主のあわれみにより頼み、
少年サムエルのように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)と言う者にしていただきたいですね。


 詩篇17篇の作者のように、心のままも御前に差し出し、聞いていただき、見ていただき、

目覚めるとき、御顔を仰ぎ見る者にも。
この新しい週も。

 

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食べて、元気を得、思いっ切り大胆に語り

主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、

「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ」
と言った。
列王記上19:7

 主よ、あなたの僕たちが、

思い切って大胆に
御言葉を語ることができるようにしてください。
使徒4:29

 申命記4:27~35(36~40)
 使徒28:17~31(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/26;土)

 

 紀元前850年頃のこと、北イスラエル王国の王アハブは、シリアの王女イゼベルを妻に迎えたため、

イスラエル王国は、バアル(カナンの地の豊穣の神)礼拝が盛んになったのだそうです。

 天の神、主の預言者エリヤは、カルメル山に、イゼベルの食卓につくバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人を集めて、彼らと対決したのだそうです。。

祭壇の薪の上にささげ物として雄牛を切り裂いて載せ、火をつけないでおいて、

天からの火をもって答える神を神としようとイスラエルの民に迫ったのだそうです。

 それで、まず、バアルの預言者450人が、朝から真昼まで、バアルの名を呼んで言ったのだそうです。
「バアルよ。私たちに答えて下さい」と。
しかし、何の声もなく、答える者もなく、そこで、彼らは自分たちの造った祭壇のあたりを踊りまわり、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけ、夕方のささげものをする時まで騒ぎたてたのですが、
何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかったのだそうです。

 そこで、今度は、エリヤが、こわれていた主の祭壇を建て直してたきぎを並べ、

雄牛を切り裂いてたきぎの上に置き、そのうえに三度も水をかけて、

アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。
あなたがイスラエルにおいて神であり、
私があなたの僕であり、
あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。
私に答えてください。主よ。私に答えてください。
この民が、あなたこそ、主よ、神であり、
あなたが彼らの心をひるがえしてくださることを知るようにしてください」と言うと、
主の火が降って来て、いけにえと、たきぎと、みぞの水もなめ尽くし、
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言ったのだそうです。
そこでエリヤは民に命じてバアルの預言者たちを捕らえ、キション川に連れて下り、彼らを殺したのだそうです。

 

 アハブから、このことを聞いたイゼベルは、使者をエリヤのところに遣わし、
「もしも私が、明日の今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、
神々がこの私を幾重にも罰せられるように」と言い送ったのだそうです。

 それで、エリヤは、イゼベルを恐れて立ち去り、ベエル・シェバに来、
さらに荒野へ1日の道のりを入り、死を願ってえにしだの木の下で横になり、眠っていると、
一人の御使いが彼にさわり、頭のところにパン菓子と、水の入ったつぼを置き、

「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言ったのだそうです。
食べて力づいたエリヤは、40日40夜、歩いて、神の山ホレブ(シナイ山)まで行くことができたのだそうです(Ⅰ列王18:16~19:8新改訳)。

 

 

 ペテロとヨハネが、生まれたときから足が萎えていて歩いたことがなく、
エルサレム神殿の美しの門で、宮に来た人たちから施しをもらって生活をしていた40歳余りの男の人を、
イエス・キリストの名によって歩けるようにしてやり、
驚いて集まってきた人たちに、「あなたがたが十字架につけたイエスを神はよみがえらせ、
そのイエスの御名がこの人の足を強くし、歩けるようにしたのですと語っていたのだそうです。

 

 それで、祭司長、長老たちが二人を捕らえたのですが、
民衆の手前、二人を処罰することができず、
エスの名によって語ったり教えたりしてはならないと二人に命じて釈放したのだそうです。

釈放された二人は仲間のところに行っていっさいを報告し、
「主よ。いま彼らのおびやかしをご覧になり、
あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行わせ、
あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」と祈ったのだそうです。そして、彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、
一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出したのだそうです。

 

 

 私たちにも、この人生という旅は長く、食べて力を得させようと、
天の〔父である神〕は、いのちのパンである〔御子である神〕を、
女の子孫である(創世記3:15)人間イエスとして派遣され、
この方を食べて、――食べた物が、食べた人のからだと一つになっているように――
この方と思いを一つにする者にしていただき、
見たこと、聞いたこと、体験したことを思い切り、大胆に語り、
この方、主だけが神であって、ほかに神はいないことを、
さらに深く知っていくのだそうです(申命記4:35)。
今日も。

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