風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべての人を神の子にしようと

エッサイの株から一つの芽が萌え出で、
その根からひとつの若枝が育つ。
イザヤ書11:1

 しかし、時が満ちると、
神は、その御子を女から、
しかも律法のもとに生まれた者として
お遣わしになりました。
それは、律法の支配下にある者を贖い出して、
私たちを神の子となさるためでした。
ガラテヤ書4:4~5

 マタイ2:13~18
 ヨハネ1:6~8(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/28;木)

 イエスが生まれる、およそ740年ほど前のこと、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
イザヤを預言者として立て、預言して言われたのだそうです。
「エッサイの根株から一つの新芽が萌え出で、若枝が出て実を結ぶ」、と。

そして、イエスは、エッサイの息子のダビデ王の子孫であるマリヤ
(ルカ3:23~32 ヘリは、マリヤの父、夫ヨセフには義父)と
ヨセフ(マタイ1:6~16)の息子として、人の世に来られたのだそうです。
律法を持つ民の中に。

 そして、ホセアの預言に、
「わたしの子をエジプトから呼び出した」(ホセア11:2)とあるように、
赤ん坊のイエスは、ヘロデ大王の殺意を逃れてエジプトに逃げ、
ヘロデが死んだ後、御使いのお告げを受けて、イスラエルの地に帰り、
ガリラヤのナザレに住まれたのだそうです(マタイ2:13~15、19~23)。

 ヘロデは、イエスを殺そうとして、
ベヅレヘム近辺の2歳以下の男の子をひとり残らず殺させ、
エレミヤ書31:15に書かれてある、
「聞け。ラマで聞こえる。
苦しみの嘆きと泣き声が。
ラケルがその子らのために泣いている。
慰められることを拒んで。
子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」
というようなことも起こったのだそうです(マタイ2:18)。

 また、イエスが30歳のころ、
キリスト(神の子・救い主)としての活動を始める直前、
イザヤ書40:3にある、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整えよ。
荒れ地で、私たちの神のために。
大路を平にせよ』との預言のように、
「王の前に道を備える者」として
バプテスマのヨハネが宣教を始めたのだそうです(ヨハネ1:6~8)。

エスは、律法の支配下にあって、
「的外れ」の存在のゆえに滅びるはずの私たちの身代わりとなり、
律法に示されているとおりに、
贖いの小羊としてご自分のいのちを差し出し、
神に呪われた者として、
十字架刑で天と地との間に掲げられてくださったのだそうです。
それで、受け入れる者は処罰が終わっている者としていただけるのだそうです。

 そして、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者に「神の子」の身分を与え、
〔父である神〕の御思いを心に置いてくださり、
受け入れる者が神の家族として、
〔父である神〕と思いを一つにし、
心を一つにして生きていくようにしてくださるのだそうです。
今日も。

この御救いは、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄、なのだそうです

主は私たちの神、
主の裁きは全地に及ぶ。
詩105:7

 光が世に来たのに、
人々はその行いが悪いので、
光よりも闇の方を好んだ。
それが、もう裁きになっている。
ヨハネ3:19

 ヨハネ1:1~5(6~8)9~14
 ヘブル書1:1~3(4~6)
 ルカ2:29~32(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/26;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方。
この方こそ、私たちの神、主。
この方の裁きは全地に、すべての人に及ぶのだそうです。

光が世に来ているのに、
私たちは、光よりも闇を愛するのですね。
悪いことをする者は光を憎み、
その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方へ来ないで。
ちょうど、アダムとエバが、
「あなたはどこにいるのか」と呼びかける神から身を隠し、
園の木の間に身を隠したように。
このこと自体が、
私たちが「的外れ」になっている結果であり、
裁きになっている、というのですね。

 

〔神の御子〕であられる方が、
人間イエスとして、人の世に来られたのだそうです。
使徒ヨハネは記しています。

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。
  ~~
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:1~5、9~14新改訳)、と。


ヘブル書の記者は記しています。

神は、むかし父祖たちに、
預言者たちを通して、
多くの部分に分け、
また、いろいろな方法で語られましたが、
この終りの時には、御子によって、私たちに語られました。

 神は、御子を万物の相続者とし、
また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、
また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられます。
また、罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:1~3)、と。


 この御子である方、イエスが、
私たちに代わって、
私たちが受けるはずの十字架刑での処刑を受けてくださっているので、
私たちは、このイエスに合わせられたものとしていただけ、
処罰が終わっているものとしていただけるのだそうです。

 そして、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者に来て下さり、
私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを
置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は、
〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして、
〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者に
していただけるのだそうです(創世記1:26、ヨハネ17:21~23、14:12)。

エスが〔父である神〕と心を一つにしておられ、
〔父である神〕がしようと思われることだけをしておられたように(ヨハネ5:30、8:28)。

 イエスによる、この御救いは、
〔父である神〕が万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄(ルカ2:31~32)なのだそうですから。
今日も。

妬むほどの、愛の熱情をもって

あなたの神、主は
焼き尽くす火であり、
熱情の神だからである。
申命記4:24

 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛して、
私たちの罪を償
(つぐな)ういけにえとして
御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。
Ⅰヨハネ4:10

 ルカ2:(1~14)15~20
 テトス書3:4~7
 詩2(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/25;月・降誕祭)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
妬むほどの、
焼き尽くす火のような熱情をもって
私たち一人一人を愛してくださっている方なのだそうです。

それで、私たちはこの方を無視し、背を向けるばかりだったのに、
見捨てず、
なお、私たちと一つになろうと、
私たちを求め続けてくださっているのだそうです。

〔父である神〕は、〔御子である神〕を人間として、人間の世界に遣わされ、
私たちの「的外れ」の責任をこの方に負わせて、十字架刑で処刑し、
私たちが受けるはずの処罰をこの方に負わせて、
私たちに、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来る道を開いてくださったのだそうです。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
受け入れる者がご自分と同じ思い、一つ心になって生きていくように、と。

 イエスが、マリヤの胎を通して人となられ、
人の世に来られたときの様子を、
ルカは次のように記しています。

野宿で、羊の群れの夜番をしていた、
貧しい、社会的にも低く扱われていた羊飼いに
天使が現れ、言ったのだそうです。
「恐れることはありません。
今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町(ベツレヘム)で、
あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
これが、あなたがたのためのしるしです」、と。

御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、
羊飼いたちは互いに話し合った。
「さあ、ベツレヘムに行って、
主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

そして急いで行って、
マリヤとヨセフと、飼い葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
それを見たとき、羊飼いたちは、
この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた。
 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話しのとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行った(ルカ2:8~20新改訳)、と。

このイエスについて、
〔父である神〕は、
「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。
わたしに求めよ。
わたしは国々をあなたへのゆずりの地として与え、
地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
焼き物の器のように粉々にする」(詩篇2:7~9)、
と言われているのだそうです。

 使徒パウロは、この、イエスによって、
〔父である神〕が私たちに差し出していてくださる出来事を
次のように書いています。

 

 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛が現れたとき、
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、
ご自分のあわれみのゆえに、
聖霊による、新生と更新との洗いをもって
私たちを救ってくださいました。
神は、聖霊を、
私たちの救い主なるイエス・キリストによって、
私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、
永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです(テトス3:4~7)、と。

 だから、幸いなのだそうです。
すべて、この方に身を避ける人は(詩篇2:12)。
今日も。

御子による語りかけに、耳を傾け

主において常に喜びなさい。
重ねて言います。喜びなさい。
主はすぐ近くにおられます。
フィリピ書4:4~5(12/24の週の聖句)

 主の言葉:
お前たちは、わたしが繰り返し語り続けてきたのに
聞き従おうとしなかった。
エレミヤ書35:14

 

 神は、かつて預言者たちによって、
多くのかたちで、
多くのしかたで先祖たちに語られたが、
この終わりの時代には、
御子によって私たちに語られました。
ヘブル書1:1~2

 ルカ1:(39~45)46~55(56)
 ルカ1:68~79(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句12/24;Ⅳ日)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」をと名乗られる方は言われるのだそうです。
「わたしが繰り返し語り続けて来たのに、
お前たちは聞こうとしなかった。
預言者たちを早くからたびたび送って、
さあ、おのおの悪に道から立ち返り、行いを改めよ。
ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならないと言ったのに、
あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった」(エレミヤ35:15新改訳)、と。

 そして、今、この終わりの時代には、御子イエスによって語っておられるのだそうです。
「あなたがたの的外れの責任はイエスが負い、
十字架刑での処刑を受けて、あなたがたを贖(あがな)って、
もう、責任を問われることはないようにしてあるから、
わたしと和解し、
わたしに立ち返り、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、わたしと思いを一つにし、
心を一つにして生きる者になってほしい」、と。

御使いから、処女でありながらイエスを宿すとの告知を受けたマリヤが、
同じように、神によってバプテスマのヨハネを宿している
親戚のエリサベツを訪ね、
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、
なんと幸いなことでしょう」と喜び合い、
「わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。
その御名は聖く、
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
主は、御腕をもって力強いわざをなし、
心の思いの高ぶった者を追い散らし、
権力のある者を王位から引き降ろされます。
低い者を高く引き上げ、
飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせないで追い返されました。
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、
そのしもべイスラエルをお助けになりました。
私たちの父祖たち、
アブラハムとその子孫に語られたとおりです」(ルカ1:46~55)とうたい、

 また、不妊で老齢の妻が子を宿すとの
御使いの告知を信じられなかったため、
口がきけなくなっていたエリサベツの夫のザカリヤが、
生まれた子供の名を、
御使いから告げられたとおりに
「その名はヨハネ」と書いて伝えたたところ、
たちどころに口が開け、
「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。
主はその民を顧みて、贖(あがな)いをなし、
救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
古くから、
その聖なる預言者たちの口を通して主が話してくださったとおりに。
この救いはわれらの敵からの、
すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、
その聖なる契約を、
われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
われらを敵の手から救い出し、
われらの生涯のすべての日に、
聖く、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。
主の御前に先立って行き、その道を備え、
神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
これはわれらの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、
日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
暗黒と死の陰に座っている者たちを照らし、
われらの足を平和に導く」(ルカ1:67~79)と、
喜びに満たされてうたったように。 

 

 私たちも、私たちに近く、近くいてくださる
神である主の御業の中で、
喜びに満たされて。
この新しい週も。

預言の言葉を、暗やみに輝くともし火として

主からヤコブへの言葉:
見よ、わたしはあなたと共にいる。
あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、
必ずこの土地に連れ帰る。
創世記28:15

 私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものです。
明けの明星が心の中に昇るときまで、
暗い所に輝くともし火として
この預言の言葉に留意していて下さい。
Ⅱペテロ1:19

 イザヤ書7:10~14
 マラキ書3:13~24(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/23;土・祝)

 赤い豆の煮もの1杯で、兄エサウから長子の権利を買い取ったヤコブ
今度は、父イサクが老齢で目が見えないことをいいことにして
長子が受ける祝福(相続の遺言)を奪い、
エサウの殺意を逃れて、母方の叔父ラバンのもとへ逃れる、
その旅の途中で天の神、主は、ヤコブにこのように約束されたのだそうです。

 そして、20年を叔父ラバンのもとで過ごしたのち、
約束の地に帰ることができたのだそうです。

 ペテロは、暗い所を照らすともし火として、
預言の言葉、神からの約束の言葉に目を留めているように、と勧めているのですね。
必ず成る、実現する約束なのだそうですから。

イザヤ書には、記されています。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。
そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」、と。

そして、それから700年ほどの時を経て起こった出来事を、
ルカは次のように記録しています(ルカ1:26~38新改訳)。

ところで、その
不妊で、老齢になっていたエリサベツが、御使いが告げたとおりにみごもった)
6ヶ月目に、
御使いガブリエルが、神から遣わされて
ガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、
名をマリヤと言った。
御使いは、入って来ると、マリヤに言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、
これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると御使いが言った。
「こわがることはない。マリヤ。
あなたは神から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。
あなたはみごもって、男の子を産みます。
名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。
また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
 そこで、マリヤは御使いに言った。
「どうしてそのようなことになりえましょう。
私はまだ男の人を知りませんのに。」
御使いは答えた。
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。
それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
ご覧なさい。
あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。
不妊の女といわれていた人なのに、今は6ヶ月です。
神にとって不可能なことは一つもありません。」
マリヤは言った。
「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
こうして御使いは彼女から去って行った。

そして、住民登録のため出身地のベヅレヘムに帰っていたとき、
マリヤは月が満ちて男子の初子を産んだのだそうです(ルカ2:1~20)。


 マラキ書には記されています。

「見よ。
わたし(神)は、
主の大いなる恐ろしい日が来る前に、
預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、この心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(マラキ4:5~6新改訳)、と。

そして、そのエリヤの再来として、バプテスマのヨハネが現れたのですが、
ユダヤの指導者たちは、彼を認めようとせず、
彼に対して好き勝手なことをした(マタイ17:10~12)のだそうです。

このとき、イエスは、柔和な王として、
軍馬ではなく、まだ人を乗せたことのない子ろばに乗って
エルサレムに入城され、
すべての人の身代わりとなり、
すべてのそむきの責任をご自身に負って十字架刑での処刑を受けられたのだそうです。

 天の神、主はさらに、マラキをとおして言われます。

「あなたがたは言う。
『神に仕えるのはむなしいことだ。
神の戒めを守っても、
万軍の主の前で悲しんで歩いても、
何の益になろう。
今、私たちは高ぶる者をしあわせ者と言おう。
悪を行っても栄え、
神を試みても罰を免れる』と。
 そのとき、主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、
主の前で、記憶の書がしるされた。
『彼らは、わたしのものとなる。
わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。
人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
あなたがたは再び、
正しい人と悪者、
神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。
見よ。その日が来る。
かまどのように燃えながら。
その日、すべて高ぶる者は、わらとなる。
来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。
  ――万軍の主は仰せられる――
 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、
その翼には、いやしがある。
あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。
彼らは、わたしが事を行う日に、
あなたがたの足の下で灰となるからだ』(マラキ3:14~4:3新改訳)、と。

 

この預言は、イエスが再び、オリーブ山に立たれ、
栄光の王として、
今は閉じられている黄金門からエルサレム入城なさる時に実現するということでしょうか。

 

ペテロは、預言の言葉に目を留めているようにと勧めているのですね。
天の神、主は、主につく者がどこに行ってもこれを守り、
ご自身がいる所に、いっしょにいるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。

花婿を待つ花嫁のように、心燃やされながら

 私たちは、今日、
主に逆らい、主に背くつもりなど、
全くありません。
ヨシュア記22:29

 エマオの若者の言葉:
道で話しておられるとき、
また聖書を説明してくださったとき、
私たちの心は燃えていたではないか。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻った。
ルカ24:32~33

 黙示録22:16、17、20、21
 マラキ書2:17~3:12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/22;金)


 ルカ24:13~52(新改訳)によると、
エスの復活と昇天の様子は次のようだったのだそうです。

金曜日、弟子たちは、十字架刑で処刑されたイエスを墓に葬り、
安息日の土曜日が過ぎ、日曜日のこと、
二人のイエスの弟子が、失意の中、エマオ村に向かって歩きながら、
エルサレムで起こった出来事について話し合っていたのだそうです。

 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、
エスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
エスは彼らに言われた。
「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」
すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
クレオパというほうが答えて言った。
エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、
あなただけが知らなかったのですか。」
エスが、「どんなことですか」と聞かれると、ふたりは答えた。
「ナザレ人イエスのことです。
この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力ある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、
この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。

 事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
また仲間の女たちが私たちを驚かせました。
その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
エスのからだが見当たらないので、戻って来ました。
そして御使いたちの幻を見たが、
御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、
エスさまは見当たらなかった、というのです。」

 するとイエスは言われた。
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、
それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、
聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。

 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。
そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、
エスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだと分かった。
するとイエスは、彼らには見えなくなった。

 そして、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
「ほんとうに、主はよみがえて、シモン(ペテロ)にお姿を現された」と言っていた。
彼らも、道であったいろいろなことや、
パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。

 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
すると、イエスは言われた。
「なぜ、取り乱しているのですか。
どうして心に疑いを起こすのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。
わたしにさわって、よく見なさい。
霊ならこんな肉や骨はありません。
わたしはもっています。
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
エスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召しあがった。

 さて、そこでイエスは言われた。
「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。
わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、
必ず全部成就するということでした。
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
「次のように書いてあります。
キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、
エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
あなたがたは、これらのことの証人です。
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。
あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都(エルサレム)にとどまっていなさい。」

それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて、祝福された。
そして祝福しながら、(上げられ、)彼らから離れて行かれ(雲に包まれて、見えなくなられ)た。


黙示録22:16、17、20、21には、次のように記されています。

「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあかしした。

わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
御霊も花嫁も言う。

「来て下さい。」

これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。

渇く者は来なさい。

いのちの水が欲しい者は、それをただで受けなさい。

これらのことをあかしする方がこう言われる。

「しかり。わたしはすぐに来る。」

アーメン。主イエスよ。来てください。

主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン、と。


 マラキ書2:17~3:12は、次のようです。

 あなたがたは言う。

「悪を行う者もみな、主の心にかなっている。
さばきの神はどこにいるのか」と。

 「見よ。わたしは使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。
あなたがたの尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。
だれが、この方の来られる日に耐えられよう。
だれが、この方の現れるとき立っていられよう。
まことにこの方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
この方は銀を精錬し、これをきよめる者として座に着き、
レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。
わたしは、さばきのために、あなたがたのところに近づく。
わたしは、ためらうことなく証人となり、
呪術者、姦淫を行う者、偽って誓う者、
不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、
在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。
わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。
すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。
あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる」、と。

 

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」であって、
主に逆らい、背く者ですが、
この方に立ち返り、
私に代わって十字架に架かり、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが王として来られる、
その日を見つめつつ、
「主イエスよ、来てください」と心燃やされつつ、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、 

御思いの中に出て行くようにしていただけるのだそうです。
今日も。

イエスによる救いを頂戴して

主よ、
私は御救いを仰いで待ち望みます。
119166

 シメオンは
主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、
とのお告げを受けていた。
シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、
(両親に抱かれた)エスと出会った。
オンは幼子を腕に抱き、神をたたえた。
ルカ2262728

 黙示録378101112
 マラキ書1614(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句12/21;木)

 ローマ帝国支配下で苦しんでいたイスラエルの民。
この当時、救い主の出現を待ち望む気風が強くなっていたようです。

 ルカの記述によると、
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。
この人は正しい、敬虔な人で、
イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。
聖霊が彼の上にとどまっておられた。
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、
聖霊のお告げを受けていた。
 彼が御霊に感じて宮に入ると、
幼子
(おさなご)エスを連れた両親が、
その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、
みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが、万民のために備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』
父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた」(ルカ22533新改訳)、
のだそうです。

 ヨハネは記しています。
「『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、
彼が開くとだれも閉じる者がなく、
彼が閉じるとだれも開く者がない、
その方がこう言われる。
「わたし
(イエスは、あなたの行いを知っている。
見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。
なぜなら、あなたは少しばかりの力があって、
わたしのことばを守り、
わたしの名を否まなかったからである。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、
わたしも、地上に住む者たちを試みるために、
全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
わたしは、すぐに来る。
あなたの冠をだれにも奪われないように、
あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう」』」(黙示録3781012)、と。

 そして、この方が諸国の民の間であがめられるようになるのだそうです(マラキ111
から

 〔父である神〕は、私たちにも、この救い、
十字架刑での処刑を受けてくださり、
死者の中から最初に復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の私に関わる御思いを心に置いてくださって、
〔父である神〕と心と思いを一つにして生きるという新しい生き方の中で
一日一日を全うさせてくださるのだそうです。
その日まで。
今日も。