風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

そむきを赦し、慈しみをもって

(ちり)あくたにすぎない私たちですが、

あえて、わが主に申し上げます。創世記18:27

 

 ひたすら祈りなさい。コロサイ書4:2

 

 ミカ書7:7~9、18~20

 使徒14:8~20a(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/5;水)

 

 ソドムとゴモラの悪が満ちて、天の神、主が、裁きを実行するためにソドムに行こうとしているとき、

アブラハムが、もし、その中に10人の正しい者がいれば、その町をお赦しにならないのですか、と交渉する場面ですが、

アブラハムはこのように言って、

自分が、本来、天の神、主に何かを言えるようなものではないことを言い表しています。

 

 私たちも、天の神、主から、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と望まれて造られていながら(創世記1:26)、

その、天の神、主との思いを一つにし、心を一つにしていく場に留まることをせず、

自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとして、

造り主である天の神、主に対立、対抗した者(創世記3:5、22)の子孫として、

その性質を受け継いで生まれて来た者なのですので、

裁きを受けるのがふさわしい存在であって、

天の神、主に、何かをお願いできるような者ではないのだそうです。

 

 けれども、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、なお、私たち一人一人を大事に思っていてくださって、私たちがご自身と思いを一つにし、心を一つにしていく、愛し合う関係に戻ってきてほしいと願っていてくださる方なのだそうです。

 

 それで、〔御子である神〕が、人となって、アダムの、この背きの性質を受け継がない「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に来られ、

私たち、すべての人間の、すべてのそむきの責任を引き受けて、

十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 

 〔父である神〕は、その、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を、

エスの十字架刑での処刑に合わせてくださり、処刑済みのもの、死んだものとしてくださっているのだそうです(コロサイ2:20)。

 

 そのうえで、イエスの復活にも合わせて、イエスとともによみがえったものとしてくださり(同3:1)、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、

この方によって、〔父である神〕が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、

受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きる、

新しい人にしてくださるのだそうです(3:10)。

 

 〔父である神〕は、私たちの思いがご自身の思いの中にあり、ご自身の思いが私たちのうちにある、一つになる関係になろうと願っていてくださって、私たちが、自由意思で、自発的に、自分の思いの一つ一つをご自身に言って来てほしい、知らせてほしいと思っておられるのだそうです。

ちり、あくたにすぎない私たちに、イエスによる赦しと〔聖である霊〕による神の子の身分を用意して。

 

 それで、私たちにも、絶えず、ひたすら、たゆみなく、思うことの一つ一つを、

いい思いも悪い思いも全部、話して来てほしいとおっしゃるのだそうです。

今日も。

 

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