風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神が前もって準備してくださっている御業の中へと

 主なる神は、
土の塵(ちり)で人を形づくり、
鼻に息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。創世記2:7

 私たちは神に造られたものであり、
しかも、神が前もって準備してくださった
善い業(わざ)のために、
キリスト・イエスにおいて造られました。
私たちは、その善い業を行なって歩むのです。エフェソ書2:10

 黙示録19:4~9
 ヨハネ6:22~27(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/21;土)

 天の神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「われわれのかたちとして、われわれに似た」ものが欲しいと望まれ(創世記1:26)、
私たち人間を造ろうとされたのだそうです。

 そして、まず、私たち人間の住みかとして、
私たち人間が暮らすのに何不自由なく、
そして、喜び、楽しめるようにと、
この天地宇宙、
この地球の自然環境を造り出されのだそうです。

 そして、すべての準備が出来上がったところで、
最初の人アダムのからだを、土の塵で造り、
そして、鼻に息(あるいは霊)を吹き入れて
彼を生きる者とされて
エデンの園に置かれたのだそうです。


 神が前もって準備していてくださった善い業、
海の魚、空の鳥、家畜、
地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを、
神の御心のとおりに統治するようにと。


 しかし、最初の人アダムは、
その、天の神、主によって造っていただいた、
天の神、主と心を一つにし、
天の神、主が思っておられる御思いを受けて、
その御思いのとおりに治めていく場にとどまっていることを善しとせず、

 もっと偉い者に、
神の場に自分を引き上げ、
自分一人の理性の善し悪しの判断のままに事を行っていく者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになり(創世記3:5、22)、
自分一人の理性での善し悪しの判断によって行動していく者になったのだそうです。

 アダムの子孫である私たち人間は、
ひとり残らず、
このアダムの「的外れ」の性質をもって生まれて来ており、

 「神のひとりのようになり、善悪を知る」者として、
神に背き、対立、対抗して生きる者として生まれて来ているのだそうです。


 けれども、天の神、主は、
そのような最初の創造の目的から「的外れ」になった私たち人間が、
エルサレム生ごみを焼却処分しているゲヘナの谷のごみのように
焼却処分されることを惜しんで、
最初の、創造の目的どおりに、
「われわれのかたちとして、われわれに似せた」ものに
回復しようと計画してくださったのだそうです。


 それで、その、ご計画の準備の時が満ちて、
〔父である神〕は、〔御子である神〕を、
アダムの「的外れ」の性質を受け継がない「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫であるナザレ村の一処女、
マリヤの胎を通して、
人間イエスとして人の世に派遣されたのだそうです。


 そして、この方がおよそ33歳の頃、
〔父である神〕は、
この方を私たちすべての人間の身代わりのいけにえとして立て、
ユダヤ人の指導者たちの妬みを用い、
ローマ兵の手によって十字架刑で処刑されたのだそうです。

 〔父である神〕は、このイエスの処刑を、
私たちすべての人間の、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、
〔生まれたときからの私〕という霊の処刑と見なしてくださり、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっている者、
死んだ者としてくださるのだそうです。

 そして、〔父である神〕は、
この、イエスによる死を受け取った者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
私たちの心に、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
書きしるしてくださって(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
私たちが〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです。

 「われわれ」、

〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に、
思いを一つにし、
行動を一つにし、
存在を一つにしておられるように。

 だから、このイエスが、
〔父である神〕から遣わされた方であることを受け取り、
エスを通して派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者になる、

 それを受け取っていくことが、
神の業であり、
永遠のいのちに至る食物を食べることである(ヨハネ6:27)と、
エスは言うのですね。

エスによって、
このことにあずかっている者たちは言うのだそうです。

 「ハレルヤ。
万軍の支配者である、われらの神である主は王となられた。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。
小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は光り輝く、きよい亜麻布の衣を着ることを許された。
その亜麻布とは聖徒たちの正しい行いである」、と。

 この、神が準備してくださった善い業の中を歩む者、
小羊の婚宴に招かれた者は幸いなのだそううですから(黙示録19:6~9)。
神の真実のことばによって、
私たちも。
今日も。

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