風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

御霊によって歩むならば、肉の欲望を満足させることはない、のだそうですから

 あなたがたの中に、

毒草やにがよもぎを生ずる根があってはならない。申命記29:17

 

 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、

一切の悪意と一緒に捨てなさい。

互いに親切にし、

憐れみの心で接し、

神がキリストによって

あなたがたを赦してくださったように、

赦し合いなさい。エフェソ書4:31~32

 

 ガラテヤ書5:13~18

 ガラテヤ書4:8~20(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/4;木)

 

 毒草やにがよもぎが生じる根、

それは、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊のことのようです。

 

 私たち人間は、

天の神、主によって、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26新改訳)との願いで、

「われわれ」、

〔父である神〕、

〔御子である神〕、

〔聖である霊〕と呼ばれる神が、

愛し合い、自由意思で、自発的に

心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、

その一つを表すものをとの願いで造られたのだそうです。

 

 けれども、最初の人アダムとエバは、

その、神との一つの場にとどまることを善しとせず、

もっと素晴らしい者に、

神のひとりのようになろうとして、

「善悪を知る」ようになった(創世記3:5、22)のだそうです。

 

 そして、私たちは、

その創造の目的から「的外れ」になった性質を受け継いで

生まれて来ているのだそうです。

 

 その、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から、

毒草やにがよもぎ

無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの思いが心に湧いて来るのですね。

 

 〔父である神〕は、

〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣し、

私たちの「的外れ」の責任をこの方の上に置いて、

十字架刑で処刑し、

私たちの、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、

〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 そして、新たに、もう一人の方、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、

この方によって、

ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを

受け入れる者の心に置いてくださって、

受け入れる者がご自身と思いを同じくし、

心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28)。

 

 だから、私たちは、

無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの悪意が出て来たとき、

それを自分で抑え込もうとするのではなく、

それは、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて

処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであると認めて、

エスの御前に差し出し、

知ってもらい、見てもらい、受け取ってもらえばいいのだそうです。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

〔父である神〕の、

親切、憐れみ、赦し合う思いを私たちの心に置いてくださるのだそうですから。

 

 だから勧められているのですね。

〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる

〔父である神〕の御思いによって歩むように(ガラテヤ5:16)と。

 

 この世の幼稚な教えから解放されながら(ガラテヤ4:9)。

今日も。

 

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