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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

約束なさったことを、御手をもって成し遂げてくださる方に

ソロモンの祈り:
あなたは、私の父ダビデになさった約束を守り、
御口をもって約束なさったことを
今日このとおり
御手をもって成し遂げてくださいました。列王記上824
 
 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。Ⅰペテロ23
 
 ロマ71425a
 ルカ122234(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/3:金)
 
 イスラエルの第2代目の王ダビデは、天の神、主の神殿を建てることを強く願っていたのだそうです。
しかし、天の神、主は、預言者奈タンを通してダビデに言われました。
「あなたはわたしのために住む家を建ててはならない。
わたしはあなたの敵を屈服させる。
『主があなたのために一つの家を建てる。』
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王座を確立させる。
彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまで堅く立てる。
わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。
わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ」(Ⅰ歴代誌17414新改訳)と。
 
 それで、ソロモンは、天の神、主の預言の言葉のとおりに、父ダビデのあとを継いでイスラエル3代目の王となり、神殿を建て終わったとき、このように祈ったのだそうです。
 
 天の神、主は、約束を守り、御口をもって約束なさったことを、そのことばのとおりに、ご自身の御手をもって成し遂げてくださる方。
恵み深い、慈しみ深い方なのですね。
 
 私たちは、パウロが言っているように、「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがなく、自分でしたいと思う善は行わないで、かえって、したくない悪を行ってしまう者」のようです。
 
 恵み深い方、〔父である神〕は、そのような罪の律法のとりこになっている私たちを救うために、〔御子〕である方を、人間イエスとして、罪のために、罪深い肉と同じような形で人の世にお遣わしになり、イエスの肉において私たちの罪を処罰されたのだそうです。
 
 そして、これを受け入れる者を処罰済みのものとしてくださったうえで、もう一人の方、〔聖である霊〕とか〔神の御霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって受け入れる者の心にご自身の御思いを置いてくださって、
受け入れる者がご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです。
 
私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から心に来る思いを死んだものから来た思いであるとして、イエスの中に投げ捨て、
〔御霊〕が心に置いてくださる〔御父〕の御思いに従って歩む者に、律法の要求が全うされるようにしてくださり、
私たちをご自分の〔子〕、ご自分の家族にふさわしい者にしていってくださるのですね(ロマ71484)。
 
 そして、私たちがいのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりしないでいいように、生きていくのに必要なものは用意していてくださっていて、神の国に加えて与えてくださるのだそうです(ルカ122231)。
 
 だから、何を食べようか、何を着ようかと気をもむことをやめて、天の神、主が私を通してしようと思っておられる、御手をもって成し遂げてくださる御業の中に出て行けばいいのだそうです。
今日も。
 
 
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鹿が、谷川の流れを慕いあえぐように

神に、命の神に、私の魂は渇く。
いつ御前に出て、
神の御顔を仰ぐことができるのか。詩編423 
 
 “霊”の初穂をいただいている私たちも、
神の子とされること、
つまり、体の贖(あがな)われることを、
心の中でうめきながら待ち望んでいます。
私たちは、このような希望によって救われるのです。ロマ82324 
 コロサイ書3(5~7)8~11
 ルカ121321(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/2:木)
 
 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3522)、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から心に来る思いは、「お前の神はどこにいるのか。神なんかいないじゃあないか」(詩篇42310)、たとえ神がいたとしても「神は見ていない。何もしない神だ」というささやきなのですね。
 
 けれども、それが、本来のあるべき位置からずれた状態、〔的はずれ〕の状態であることを知った者は、神を知りたい、お言葉を聞きたいと、神に渇き、神を慕いあえぐのだそうです。
鹿が谷川の水を慕いあえぐように。
神の御前に出て、神の御顔を仰ぐその時を。
 
 私たち、自分の力、自分の努力で、この〔生まれたときからの私〕という霊を、天の神、主と一つ心にすることができませんでした。
 
 それで、〔父である神〕は、ご自身の側で、贖い(あがない、代価を払って買い戻すこと)の道を用意され、これを、恵みのプレゼントとして私たちに差し出し、受け取って欲しいと願っておられるのだそうです。
 
 〔父である神〕は、ご自分の御子である方を、人として人の世に送り、
この方の命を、私たちを買い戻す代価として支払って、私たちを贖う、買い戻す手続きを完了しておられるのだそうです(ヨハネ19:30)。
 
 人となられた御子である方、あのイエスを十字架刑で処刑して、私たちのそむき、的外れの責任を処罰済みとし、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。
 
 そのうえで、墓に葬られ、三日目に墓から、新しい〔霊のからだ〕に復活し、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られた、あのイエスを通して、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、この方によって、受け入れる者をご自分の〔子〕 (養子)とし、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いをその心に置き、受け入れる者が、家族として、ご自身と同じ思いを思い、一つ心になって生きるようにと、手はずを整えていてくださるのだそうです。
 
 実に、被造物は、切実な思いで、この神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのだそうです。
その時、被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるのだそうですから(ロマ8:19~21)。
 
 〔父である神〕は、〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、神の子の身分を与えられている者に、あのイエスと同じように、「復活のからだ」とか、「霊のからだ」とか呼ばれている新しいからだを着せてくださり、からだごと贖われるようにしてくださるのだそうです。
 
 その時を、私たちは、あのイエスがもう一度来られて、私たちがこの肉体を脱いで、新しい「霊のからだ」を着せていただけるその時(Ⅱコリント514)を、渇き、待ち望みながら生きるのですね。
 
 〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出て来る恥ずべきことば」を、死んだものから出て来た思いであるとして、投げ捨てながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る〔御父〕の御思いがはっきり現れ、具体的に実現するのを、渇き、慕いあえぎつつ。
今日も。
 
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まだ、見ていない事実を確認しながら

主はモーセに言われた。

「あなたはわたしの顔を見ることはできない。

人はわたしを見て、

なお生きていることはできないからである。」出エジプト33:20

 

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、

見えない事実を確認することです。

昔の人たちは、

この信仰のゆえに神に認められました。ヘブル11:1~2

 

 マタイ6:16~21

 ルカ12:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/1;水)

 

 私たちは、神は見えないから信じられない、と心に思います。

しかし、事実には、見て、確認できる事実と、見えないけれども、確認できないけれども、事実である、というものもあるようです。

 聖書が伝えている、天の神、主の出来事は、たとえ、今、見えていなくても、神のご計画の時が来れば必ず見えるようになる事実なのだそうです。

 

 それで、私たちは、今、すぐ、報いを受けられなくても、「隠れた所で見ておられる神」が報いてくださることを望み、この地上の世界だけがすべてではないことを知って、天の世界で報いを受けることを望み、天に宝をたくわえることを願います。天の世界では、虫もさびもつかず、盗人に盗まれることもないのだそうですから(マタイ6:16~21)

 

 イエスは言われました。

「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済みものはありません。暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。

からだを殺しても、あとそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナ(地獄)へ投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。

わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。聖霊をけがす者は赦されません」(ルカ12:2~10)と。

 

 私たち、天の神、主をあなどり、無視する者であり、人に知られたくない思いが心に湧いて来る者です。

けれども、私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださったイエスに、全部、もって行き、受け取ってもらって、光の中の出来事、明るみの出来事にしていただき、はばかることなく、恵みの御座の前に出て行けるようにしていただけるのだそうです。

 

 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

わたしの義人は信仰によって生きる。

もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」。

 

 恐れ退くばかりの者ですが、イエスによって、信じていのちを保つ者にしていただけるのだそうです(ヘブル10:37~39)。

今日も。

 

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律法の要求を満足する者としていただいて

主の御言葉は正しく、
御業はすべて真実。詩編334
 
 イエスの言葉:
わたしが来たのは
律法や預言者を廃止するためだと思ってはなりません。
廃止するためではなく、完成するためである。マタイ517
 
 ルカ133135
 ルカ112936(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/27:月)
 
 イエスによる救いを受け取った者は、古い契約、律法的な生き方、「主の仰せられたことはみな、(自分の力で)行います。聞き従います」(出エジプト2437)という生き方から解放され、福音(イエスによるうれしい知らせ)的生き方に移されているのだそうです。
 
 しかし、それは、律法そのものを無視し、無律法になってしまってよいということではないようです。
律法は、天の神、主が、「わたしはこういう者だから、あなたがたもこういう者になって欲しい」と思っておられる、その御思いを戒めのかたちで言い表したものだそうですから、その神の御思いが廃止されることはない、のだそうです。
 
 律法の要求を満足させるのに、二つの方向があるようです。
一つは、違反した場合、その違反にふさわしい報いを与えること。
そして、もう一つは、律法が言っているとおりの心になること。
 
 天の神、主は、この二つをイエスによって、私たちに完成させてくださろうとしていておられるのだそうです。
 
 まず、私たちの違反、〔的はずれ〕に対しては、今から2000年ほど前、預言されていたとおりに、〔御子である神〕が、「女の子孫」として(創世記315)、人間イエスとなって人の世に来てくださり(ルカ2:1~7、ヨハネ1:14)、
およそ、33歳の頃、エルサレム郊外で(ルカ13:31)、神に呪われたものとして木に掛けられ(申命記2123)、処刑されてくださったことで(ヨハネ19:30)、すべての人間の、すべての違反、〔的はずれ〕の処罰が終わったものとしてくださっているのだそうです。
 
 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださり、
新しい霊として、私たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださって(エレミヤ31334、エゼキエル362531)、私たちの心を一新してくださり(ロマ122)、
私たちが〔父である神〕の御思いを持つ者、律法の精神と同じ心を持つ者にしてくださるのだそうです。
 
 それで、受け入れる者は、御子であるイエスによって、そして、イエスが天の〔父である神〕の右の座にあって派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって律法を完成する者としていただけるのだそうです。
心に、律法で表されている同じ思いが来る者に。
御言葉の真実にかけて。
今日も。
 
 
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人間を照らす光、命の中へ

今、私たちはエルサレムへ上って行く。
人の子について預言者が書いたことは
みな実現する。ルカ1831(2/26の週の聖句)
 
 主よ、あなたは万物に命をお与えになる方。
天の軍勢はあなたを伏し拝む。ネヘミヤ記96
 
 言(ことば)の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。ヨハネ14
 
 マルコ83138 
 詩編15
  (ローズンゲン日々の聖句2/26:Ⅳ日)
 
 聖書には、天使のことはあまり詳しくは述べていないようです。
しかし、天(霊の世界)には、私たちが、「天の神、主」とお呼びし、ご自分では、「わたしはあるという者」と名乗られる方がおられ、また、多くの天使の軍勢がいて、天の神、主に仕えているようです。
それで、天の神、主を「万軍の主」ともお呼びしているわけです。
 
 〔父である神〕は、人間を、そして、人間の住まいとしてのこの天地、宇宙、この自然界のすべてを設計、計画なされ、〔御子である神〕は、〔神の言(ことば)〕、〔言(ことば)である神〕の立場にあって、〔父である神〕の御思いを表現、宣言なさり、創世記12によると、その、〔言(ことば)〕のとおりを〔聖である霊〕と呼ばれる方が実現されたようです。
 この〔御子である神〕、〔言である神〕は命であり、人を照らす光でなのだそうですね。
 
 私たち人間も、この自然界のすべてのもの、天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものは(ネヘミヤ96)、〔父である神〕の御思いのとおりに、〔御子〕、〔言である神〕を通し、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって造られ、命を与えられた、ということでしょうか。
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間を、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造られたのだそうです(創世記126新改訳)。
 
 しかし、人間の始祖、アダムは、その、神が造られた場に留まることをしないで、「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」として、天の神、主に対抗、対立する者になり、〔的はずれ〕なものになったのだそうです(創世記3522)。
 
 それで、アダムの子孫である私たち人間は、その性質を受け継いで生まれて来ており、自分が一番になろうとして、互いに対抗、対立しあい、良い物の全部を独り占めしようとし、他を自分の思いのとおりに支配しようとし、その心に計ることがみな、いつも悪いことに傾き、人の世界は暴虐で満ちることになったのだそうです(創世記6511)。
 
 天の神、主は、そのように、創造の目的から的はずれになってしまった人間を、廃棄処分にはしないで、なお、最初の目的のとおりに、「われわれのかたちとして、われわれに似た」ものに回復しようと計画してくださっているのだそうです。
 
 そのご計画は、〔御子である神〕が、人となって人の世に下り、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の責任を負って、神に反逆する者として木に掛けられ、処刑されることで、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の処罰が終わったこととしてくださるというもののようです。
 
 その上で、受け入れる者に、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、この方によって受け入れる者の心に、ご自身の、一人一人に思っておられる御思いを置き、受け入れる者と一つ思いとなり、一つ心となろうと願っておられるのだそうです(エレミヤ313334、エゼキエル362528)。
 ご自分たちが一つ思いになり、一つ心になっておられるように(ヨハネ172122)。
 
 冒頭の言葉は、その〔父である神〕の御計画のときが満ちて、旧約聖書で預言されていたとおりに、十字架刑で処刑されるために、イエスは、いよいよこれから、エルサレムに向かおうとしておられるときのものなのだそうです。
 
 およ2000年ほど前に、イエスによる処刑が完了している今は、それを受け入れるなら、私たちも、「神の一人のようになり、善悪を知る」ものになっている、私たち自身である〔生まれたときのままの霊〕を処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。
 
 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださり、心に、〔父である神〕の私に対して思っておられる御思いを置いてくださるので、私たちも〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になるようにしていただけるのだそうです。
命と光である御思いの中に。
この新しい週も。
 
 
 
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天の神、主が、私の相続財産に

私はあなたのほかに、
誰を天と地に持ちえよう。詩篇7325口語訳
 
 あなたがたはキリストを見たことがないのに
愛しています。Ⅰペテロ18
 
 マタイ133135
 ルカ112428(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/25:土)
 
 この地上では悪者が栄え、誇り高ぶるのを見ます。
彼らの死には苦痛がなく、彼らのからだは脂ぎっています。
人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、
ほかの人のように打たれることもありません。
 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、
暴虐の着物が彼らをおおっています。
彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出ます。
彼らはあざけり、悪意を持って語り、高い所からしいたげを告げ、
豊かな水は彼らによって飲み干されます。
 彼らは言います。
「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか」と。
彼らはいつまでも安らかで、富を増しています。
 
 私たちが彼らを見てねたむとき、私たちの足はたわみそうになり、
心が苦しみ、内なる思いが突き刺され、
愚かで、わきまえのない獣のようになります。
 
 そんなときも、天の神、主は、私たちとともにいてくださり、
右の手をしっかりつかまえていて、さとして導き、
後には栄光のうちに受け入れてくださいます。
それで、天でも、地でも、この方、天の神、主が私たちの望み、
私たちの相続財産。
この方が私たちの避けどころ。
この方の近くにいることが幸せな者としていただけます(詩篇73より)。
 
 私たちは、イエスの弟子たちのようにイエスを見たことがありません。
けれども、聖書を通して、イエスが語った言葉、なされた御業を知り、
それを受け取り、天の御国の国籍をいただき、天の神、主とともにいる幸いにあずかっています(ルカ1128)。
 
 この幸いは、からし種が、野菜の中でどんな種よりも小さいのに、成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣をつくるほどの木になるように、
また、パン種が、混ぜられた小麦粉の全体をふくらますように、
成長し、ふくらみ、広がっていくのだそうです(マタイ13:3133)。
今日も。
 
 
 
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負い運び、になったくださる方のもとに帰って

主は愛と憐れみをもって彼らを贖(あがな)い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。イザヤ書639
 
 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、
今は、魂の牧者であり、
監督者である方のところへ戻って来たのです。Ⅰペテロ225
 
 Ⅱテモテ31017
 ルカ111423(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/24:金)
 
 私たちはこの方を知りませんでした。
けれども、この方は、私たちが生きていくのに必要なもの、私たちを喜ばせる善きもののすべてを創造し、私たち人間を造り、常に私たちを負い運び、担って来てくださっている方なのだそうです。
私たちが存在するのも、また、存在し続けられているのもこの方によるのだそうです。
 
 この方は、ひとりの人、アブラハムを選び、このひとりの人から一つの民族イスラエルを造り、この民族と神の民となる契約を結び、このイスラエル1600年ほどの歴史の中で、40人ほどの人たちを聖書の記者として立て、聖書をとおしてご自身を私たち人間に啓示し、ご自身の御思いを表わしておられるのだそうです。
 
 その聖書によりますと、この方、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、人間の始祖、アダム以来の、私たち人類のこの方に対するそむき、離反の責任を、今から2000年ほど前、ナザレ村出身のイエスを、旧約聖書で預言されていたとおりにエルサレムで十字架刑によって処刑され、その処刑によって、私たちを処罰済みとしてくださったのだそうです。
 
 そのうえで、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、この方によって、受け入れる者の心にご自身の御思いを置いてくださり、受け入れる者がご自身と思いを同じにし、心を一つにするようにと道を開いていてくださるのだそうです。
 
 私たち、どのように生きていったらいいか分からないで、羊のようにさまよっているものですが、この方、天の神、主が魂の牧者、監督者となってくださるのだそうです。
 
 そして、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者としていただき(Ⅱテモテ317)、
神の指として悪霊どもをさえ追い出す神の国、神の統治を地にもたらす者ともしてくださるのだそうです(ルカ1120)。
 この方のこの御業の中に出て行くのですね。
私たち、今日も。
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