風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

太陽のように輝く

御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は高く上がり、
  主の右の手は御力を示す。詩編1181516
 
 そのとき、正しい人々は
その父の国で太陽のように輝く。マタイ1343
 
        (ローズンゲン日々の聖句5/4;水)
 
 イエスは、今の世を麦畑にたとえられました。
良い麦を蒔いた畑に、夜、敵が来て毒麦を蒔いて行った。
 
 それで、今、その毒麦をおう抜くと良い麦も抜いてしまうかもしれないから、両方とも育つままにしておき、収穫の時になったら、まず、毒麦を集めて火で焼くために集めて束にし、良い麦は集めて倉に入れる(マタイ132430)、と。
 
 殺す者、姦淫をする者、盗む者、偽証する者、父と母を敬わない者、隣人を自分自身のように愛さない者は、天の御国に入れないのだそうです(マタイ191819)。
正しくない者、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔うもの、そしる者、略奪する者も(Ⅰコリント6910)。
 
 人は、一人一人、人間を造られた方の前に立ち、それぞれの生き方の責任を問われるときが来るのだそうです。
単に、行動に現れたことだけではなく、心の思いを見られる方の前で。
 
 私たちは、このような者なので、天の神、主は、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして。われわれに似せて」(創世記126)と思われたその最初の時から、代理人による処刑を考えておられ(創世記31521)、『御子である方』が私たち人間の代理となることを引き受けておられたのだそうです。
 
 天の神、主は、「われわれが一つであるように、われわれと一つになる者を」と願われて、私たち人間を造ってくださったようですが、人はその御思いから外れ、天の神、主に対抗して、「神のひとりのようになり、自分一人で善悪を判定する者」になる道を選んだのだそうです(創世記34622、イザヤ141214)。
 
 その結果、人は、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くものともなったようです(創世記65)。
 
 天の神、主は、御自分の御思いから外れ、出来損ないになってしまった人間の責任を直ちに問うことをしないで、贖(あがな)い、代価を払って買い戻すことを計画されたのだそうです。
 
 それで、私たち、人間の歴史を導き、ついに、ご計画の時が満ちて、御子である方が、ダビデ王の子孫であるナザレ村の貧しい一人の処女の胎を通して、人となって、人の世に来られ、およそ、33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださり、この代理の処刑によって、すべてのそむきの罪を処罰済みとする道を、すべての人に差し出していてくださるのだそうです。
 
 それで、これをもらった者は、処罰が残っていない者とみなしていただけるのだそうですね。
そのうえで、イエスは、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、この方の働きで、「父である方」が、私たち一人一人に思っていてくださる御思いを、受け入れる者一人一人の心に書きつけてくださって、受け入れる者が「父である方」を同じ思いを思うものにし、一つ心を持つ者にしてくださるのだそうです(エレミヤ313334、エゼキエル362528 、ヨハネ17:2123)。
 
 これをもらって生きる者は、天の神、主と一つになっているものとして、天の御国で太陽の輝きような栄光に輝くのだそうです。
 
 その者は謳うのですね。
 
主に感謝せよ。
主はまことにいつくしみ深い。
 
喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。
主の右の手は力ある働きをする。
主の右の手は高く上げられ、
主の右の手は力ある働きをする。
私は死ぬことなく、かえって生きる。
そして主のみわざを語り告げよう。
主は私をきびしく懲らしめられた。
しかし、私を死に渡されなかった。
 
義の門よ。私のために開け。
私はそこから入り、主に感謝しよう。
これこそ主の門。正しい者たちはこれより入る。
私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、
私の救いとなられたからです。(詩篇118:1、1521新改訳)と。
 
今日も。