風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

救い、あがなってくださる、力ある方

主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖うもの、
  ヤコブの力ある者である。イザヤ書6016
 
 イエスは子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。
「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
少女はすぐに起き上がって、歩き出した。マルコ54142
 
        (ローズンゲン日々の聖句5/11;水)
 
 天の神、主は、預言者イザヤを通して言われます。
 
「見よ。主の御手が短くて救えないいのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
 
実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、
あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正をつぶやく。
正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、
むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。
彼らのわざは不義のわざ、
彼らの手のなすことは、ただ暴虐、
彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すのに早い。
彼らの思いは不義の思い、
破滅と破壊が彼らの大路にある。
彼らは平和の道を知らず、その道筋に公義がない。
彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。
 
私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。
輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。
公義を待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、
私たちは自分の咎を知っている。
私たちは、そむいて、主を否み、
私たちの神に従うことをやめ、
しいたげと反逆を語り、
心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。
 
主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。
主は人のいないのを見、
とりなす者のいないのに驚かれた。
そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
ご自分の義を、ご自分の支えとされた。
主は彼らのしうちに応じて報い、
その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復する。
主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。
 
『しかし、シオンには贖(あがな)い主として来る。
ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。』
 
あなたは、わたしが、あなたを救う主、
あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る」(イザヤ59:1~20 、60:16)と。
 
 
 イエスは、足もとにひれ伏し、「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」といっしょうけんめいに願う、会堂管理者ヤイロの願いを聞いてくださって、いっしょに行って下さってのだそうです。
 
 途中で、家から人が来て「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」ということばを聞いて、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われたのだそうです。
 
 そして、家に着くと、大声で泣いたり、わめいたりし、イエスが、「子どもは死んだのではない。眠っているのです」と言うと、喜ぶどころか、あざ笑う人々を外に出し、このように言われると、死んでいた娘はすぐさま起き上がって歩き始めたのだそうです(マルコ521243543)。
 
 
 無から有を呼び出し、死人を生き返らせる力ある方が、私たちの罪を御自身で負い、受け入れる者の心に、私たち、一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださり、私たちを用いようとしていてくださるのだそうです。
今日も。