風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

勇気をもらえるのだそうです。すでに世に勝っている方から。

 新しい歌を主に向かって歌え、
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩98:1(4/29の週の聖句)

 私はあなたのもの。
どうかお救いください。
詩119:94

 イエスの言葉:
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。
ヨハネ16:33

 マタイ11:25~30
 詩98(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/29;Ⅴ日曜)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちを救おうと、
私たちのために驚くべき御業、
私たちの救いの御業を成し遂げてくださっているのだそうです。

 目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
人の心に思い浮かんだことのないことを(ⅠコリントⅡ:8~9、新改訳)。

 それで、人間の理性では理解できない、考えられないことだったので、
人々は、イエスを、
自分を神と等しくする、
神を冒涜する者として十字架刑で処刑してしまったのだそうです。

 「もし、おまえが神の子なら、自分を救ってみろ。
十字架から降りて来い。そうしたら信じてやる」、
「もし、神のお気に入りなら、いま救っていただくがよい」と
あざけりながら(マタイ27:39~44、新改訳)。

 イエスは言われます。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、
幼子たちに現してくださいました。
そうです。父よ。
これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、
子が父を知らせようと心に定めた人のほかには、
だれも父を知る者がありません。」(マタイ11:25~29)

 それで、自分の「的外れ」の存在に気づいて、
「どうかお救いください。
あなたのものとしてください」と願っていく者を救うことができるよう、
〔父である神〕は、人となられた〔御子である神〕、イエスによって
救いの手立てを完成してくださったのだそうです(ヨハネ19:30)。


 私たち、世にあっては患難があります。
けれども、イエスは言われます。
「わたしはすでに世に勝っている」、と。

 また言われます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28~30)、と。

 それで、イエスに、「どうかお救いください」と願っていき、
エスの救いの御業の中に入れていただいて、
エスのもの、イエスにつく者としていただいた者はうたうのですね。

 新しい歌を主に歌え。
主はくすしいわざをなさった。
その右の手と、その聖なる御腕とが、
主に勝利をもたらしたのだ。

 

 主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
御救いを知らしめ、
その義を国々の前に現わされた。
主はイスラエルの家への
恵みと真実を覚えておられる。
地の果て果てまでもが、、みな、
われらの神の救いを見ている。

 全地よ。主に向かって叫べ。
大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。
立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。
立琴と歌の調べに合わせて。
ラッパと角笛の音に合わせて。
主である王の御前で喜び叫べ。

 海と、それに満ちてもの。
世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。
もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。
山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。

 確かに、主は地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
公正をもって国々の民を、さばかれる(詩篇98、新改訳)、と。

 この新しい週も。

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