風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ご自身のいのちを与える愛によって

 わたしは反逆の民、
思いのままに良くない道を歩く民に、
絶えることなく手を差し伸べてきた。
イザヤ書65:2

 私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。
ロマ書5:8

 出エジプト15:(1~11)19~21
 ヘブル書1:1~4(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句4:30;月)

 私たち人間は、
創造主であられる天の神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方に、反逆、対抗し、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
自分の思いのままに歩く者、
そしてその心に計ることはいつも良くないことばかりに傾く者なのだそうです。

 けれども、そのような私たちを、
天の神、主は、廃棄処分にせず、
回復の道を備え、帰って来るよう手を差し伸べ、
呼びかけ続けていてくださるのだそうです。

 神は、その愛のゆえに、
御子である方を、人として人の世に送り、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして、
私たちの反逆、背きの責任をこの方の上に置き、
十字架刑で処刑し、
私たちへの処罰が終わったものとしてくださっているのだそうです。

 かつて、イスラエルの民が、
奴隷とされていたエジプトを脱出した時、
天の神、主は、葦の海の水を分け、
イスラエルの民を、乾いた地を行くように向こう岸に渡らせ、
あとを追って海に入って来たエジプト王パロとその戦車隊の上に
水を流れ返らせ、
エジプト軍を全滅させられたのだそうです。

 そのとき、モーセとアロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、
女たちもみなタンバリンをもって、
踊りながら出て来て、歌ったのだそうです。

 「主に向かって歌え。
主は輝かしくも勝利を収められた。
馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」(出エジプト15:19~21)、と。

 神は、昔は、預言者たちを通して、多くの部分に分け、
また、いろいろな方法で語られました。
しかし、この終りの時には、御子によって語られているのだそうです。

 〔父である神〕は、御子を万物の相続者とし、
また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、
また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられる方。

 また、私たちの罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着いておられる方。

 御子は、天使たちよりもさらにすぐれた御名を相続され、
それだけ、天使たちよりもまさるものとなっておられる方、
なのだそうです(ヘブル1:1~4)。

 この方が、私たちの救い主、キリストとなってくださり、
大祭司、また、私たちの弁護人として、
〔父である神〕に執り成し、
また、サタンの告訴に対して、
ご自身が受けてくださった身代わりの処刑でもって、
弁護していてくださるのだそうです。

 それで、私たちも歌うのですね。モーセのように。
「主に向かって私は歌おう。
主は輝かしくも勝利を収められた。
主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
この方こそ、わたしの神。
私はこの方をほめたたえ、あがめる。

 主よ。神々のうち、だれがあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように聖であって力強く、
たたえられつつ恐れられ、
奇しいわざを行うことができましょうか」(出エジプト15:1~11、新改訳)、と。

私たちも。
今日も。

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