風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

この世界と、その中のすべてのものを創造し、保っておられる方の御思いによって

あなたのみが主。
天とその高き極みを、
そのすべての軍勢を、
地とその上にあるすべてのものを、
海とその中にあるすべてのものを、
あなたは創造された。ネヘミヤ記9:6

 すべてのものは、神から出て、
神によって保たれ、神に向かっているのです。
栄光が神に永遠にありますように。ロマ11:36

 申命記7:6~12
 ルカ9:51~56(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/14;火)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方だけが本当の神。この方は、万軍の主とも呼ばれ、天使のすべての軍勢を、そして、この宇宙と地球、地の上にあるもの、海とその中にあるものを御思いのとおりに創造し、これを保っておられる方。すべてのものはこの方の御思いから出て、御思いののとおりになっていくのだそうです。

 この方は、今から4千年ほど前、メソポタミアのカルデヤのウルから一人の人、アブラムを選び、彼にアブラハム(多くの国民の父)という名を与え、罪に満ちてしまったカナン人を裁かれるとき、この地をアブラハムとその子孫に与えるとの契約をアブラハムと結び、その契約を実行された方。
一人の人から一つの民族をつくり、これをしるしと不思議をもってエジプトから導き出し、約束の地に導き入れた方。

 この方は、誠実な方。この方を愛し、この方と心を一つにして歩む者には恵みの契約を千代までも守られる方。
しかし、この方を憎む者には、これに報いてたちどころに彼らを滅ぼされる方(申命記7:6~12)。

 しかし、なお、この方に対立、対抗し、自分の理性の判断のとおりの自分の道を行くばかりの者を、なお愛し、恋い慕って(申命記7:7)、私たち人間の背きの報いを〔御子である神〕が負われたのだそうです。

 〔御子である神〕が、〔女の子孫〕として(創世記3:15)、アブラハムの子孫であるダビデ王の子孫(Ⅰ歴代17:11~14)の処女マリヤ(ルカ3:23~38、1:26~27)の胎を通して人の世に、人間イエス(神は救いという意味)となって来られ、私たちすべての人間の、すべてのそむきの責任を負って、十字架刑で天と地の間に上げられ(ルカ9:51)てくださり、罰はご自分に、そして、ご自身の神の子の栄光を、受け入れる者に着せてくださるようにしてくださったのだそうです。

 神にそむく者として十字刑で処刑されてくださり、罪人として陰府にまで下り、三日目、日曜日の早朝、墓より、新しい〔霊のからだ〕に復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスは、そこから、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、〔父である神〕の御思いの深みにまで及ばれる方なのだそうです(Ⅰコリント2:10~11)。
この方が受け入れる者のうちに派遣され、来てくださって、受け入れる者の心に、〔父である神〕がひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるしてくださるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~31)。
それで、これを受け入れ、その思いについて行く者は(ガラテヤ5:24~25)、この部分において、〔父である神〕と同じ思いを思う者にしていただけて、〔父である神〕と一つ心になって、一つ行動をとる者にしていただけるのだそうです。
それぞれが行う一つ一つのことにおいても、神の御思いから発し、神の御思いによって成り、神の御思いに至る者に(ロマ11:36)。
今日も。


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すべてが明らかなのだそうです。あの方の御前では。

あなたは私たちの罪を御前に、
隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。詩編908
 
 隠れているもので、
あらわにならないものはなく、
秘められたもので、人に知られず、
公にならないものはない。ルカ817
 
 ルカ19110
 ルカ94650(通読箇所))
 (ローズンゲン日々の聖句2/13:月)
 
 隠れているもの、秘められているものも、すべてが天の神、主には明らかなのだそうですが、そればかりではなく、人にも知られ、公にされるときが来るようですね。
人に知られないように隠し通せたことも。
また、心の内にしまいこんでいることも。
 
 それで、イエスは、兄弟に向かって腹を立てる者は、殺人罪で裁判にかけられる、「能なし」と言うような者は、最高裁判所に引き渡される、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれると言われたのでしょうか。
また、情欲を抱いて異性を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです、とも(マタイ52128)。
 
 そして、自分は他人よりも偉い者だ(ルカ9:46)とひそかに思う思い、
「これは自分の力で得たものだ」と自分を誇りたい思い、
それが、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている(創世記3522)〔生まれたときからの私〕という霊から心に湧きあがって来るのですね。止めようもなく。
 
 それらが、すべて、明らかになり、人に知られる、公のものになる、そういう日が来ると。
 
 エリコの取税人のかしら、ザアカイという人物。金を貯め込むことを人生の目的にし、町の人から罪人と評価され、イエスが彼の家に泊まると、人々は、「イエスは罪人のところに行き、客となった」と批判されるような人だったのだそうです。
 けれども、イエスの愛にふれ、自分から「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と申し出て、イエスから、「きょう、救いがこの家に来ました」と言っていただけるほどに心が替えられたのだそうです(ルカ19110)。
 
 〔父である神〕は、〔御子である神」を人間イエスとして人の世に派遣し、すべての人の身代わりとし、神に背く者として十字架刑で処刑されたのだそうです。
そして、そのイエスの死を、私たち自身の〔生まれたときからの私〕という霊の処刑とみなしてくださり、私たちの処刑が終わったことにしてくださるのだそうです。
それで、これを受け入れた者は、何が出て来ても、すべて、処罰済みの大判を押していただけるのだそうです。
 
 さらに、イエスは、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、受け入れる者の心に、〔父である神〕がひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるしてくださるのだそうです。
それで、受け入れる者は、心が一新され(ロマ122)、この部分において、〔父である神〕と同じ思いを思い、同じ願いを願う者としていただき、〔父である神〕と一つ心に、一つ行動をとる者にしていただけるのだそうです。
 
 私たちの心から、どんな思いが出て来ても、訴える者、サタンが、何を告訴しても、その一つ一つが処罰済みであるとしてくださっているので、受け入れる者は、はばかることなく、「父よ」と呼びかけて(ロマ81417)、御前に出て行けるのだそうです(ヘブル416)。
今日も。
 
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東から、西から、南から、北から来て、宴会の席に

私たちは、あなたの深い憐れみのゆえに、
伏して嘆願の祈りをささげます。ダニエル書918(2/12の週の聖句)
 
あなたイスラエルは知らなかった国に呼びかける。
あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じる。イザヤ書555 
 
 人々は、東から西から、また南から北から来て、
神の国で宴会の席に着く。ルカ1329
 
 マタイ20116a
 詩編18120
  (ローズンゲン日々の聖句2/12:Ⅱ日)
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に、私たちが嘆願の祈りができるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、天の神、主の大いなる憐れみによるのですね。自分の正しさはもちろんのこと、自分の信仰さえもこの方に願いができる足掛かりにはならないのだそうです。
 
 天の神、主は、正しさのない者、御前に差し出す〔わたしの信仰〕さえもない者に、ご自身の側の、一方的な憐れみによっておっしゃられます。
「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。
金のない者も。
さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、
代価を払わないで、ぶどう酒を買え。
なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、
腹を満たさない物のために労するのか。
わたしに聞き従い、良いものを食べよ。
そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。
耳を傾け、わたしのところに出て来い。
聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。
わたしはあなたがたととこしえの契約、
ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、
諸国の民の君主とし、司令官とした。
見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、
あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。
これは、あなたの神、主のため、
また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。
 
主を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、
不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば主は憐れんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザヤ5517新改訳)と。
 
 
 神の国での大宴会には、東から、西から、南から、北から、人々が招かれ、集まって来るのだそうです。
けれども、それは、資格のない者を愛し、憐れんでくださる、王である方の、一方的な憐れみによるのだそうです。
それで、自分の正しさや、〔自分の信仰〕を足掛かりにして、その宴会に加わろうとする者は、後回しにされるようですね。
ただ、憐れみにすがる後の者が先になり、先の者であっても、自分の何かを根拠にしている者は後になるようです。
 
 私たちが、天の神、主と一つ心になるようにと、私たちのそむきの責任を、私たちに代わって負ってくださり、十字架刑での処刑を受けてくださったイエスは、今、〔御子である神〕の場にあって、受け入れる者に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださいます。私たちの正しさや、〔私の信仰深さ〕に関係なく、ご自分の愛とあわれみにおいて。
 この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕が私たちひとり一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に置き、書き付けて(エレミヤ313334、エゼキエル362531)、受け入れる者を、〔父である神〕と一つ思いにしてくださり、神の国の栄光のみわざにあずからせようとしていてくださるのだそうですから。
この新しい週も。
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私たちの中に住んでくださって

わたしの住まいは彼らと共にあり、
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。エゼキエル書3727
 
 (ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた。
私たちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、
恵みと真理とに満ちていた。ヨハネ114
 
 民数記62227
 ルカ93745(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/11;祝・土)
 
 
 聖である神、全知、全能の神、天使の万軍に号令している方、
この天地、宇宙を造り、地球の自然環境を造り、
人間の住まいとして与えられた方、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、住まいを私たち人間の間に定め、人間の中に住んでくださるというのですね。
そして、受け入れる者の神となってくださり、
受け入れる者を御自分の民としてくださる。
 
 私たちは、〔御子である神〕、〔言〕(ことば)である神と呼ばれる方
〔父である神〕の御思いの表現である方が、人となって人間の世に宿られたのを知っています。
 この方は、ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れず(ヨハネ1:11)、人々の手に渡され(ルカ9:44)、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえる(ルカ9:22)ために。
 
 彼の死と復活によって、「神の一人のようになり、善悪を知る者」、造り主である天の神、主に逆らい、対抗する者になっている、滅びるはずの私たちが、神の民としていただき、神と共に住む者にしていただけるのだそうです。
 
 十字架刑で処刑され、墓に葬られ、三日目に新しい霊のからだに復活し、天の〔父である神〕の右の座、御子なる神の位に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方が受け入れる者のうちに住んで、受け入れる者の心に、〔父である神〕の御思いを置いてくださるので、受け入れる者は、この方によって〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になって、〔父である神〕がその人をとおしてしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです。
そして、
主があなたを祝福し、
あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安を与えられますように」(民数記い6:22~27)との祝福を受ける者に。
今日も。
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わたしが喜んでいるように、あなたがたも喜ぶようになり

わたしはわたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。イザヤ書6519
 
 希望をもって喜びなさい。ロマ書1212
 
 Ⅰコリント2610
 ルカ92836(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2 /10:金)
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方御自身が、その民を喜び、楽しみとしていてくださるというのですね。
 
 本来、私たち、人間は、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして、互いに、相手を喜び、楽しむ者、花婿が花嫁を喜ぶように喜び合う者を、と望まれて造られたものなのだそうです(創世記1:26)。
 
 けれども、最初の人アダムは、その造られた「わたしはあるという者」と名乗られる方との一つの場に留まることをしないで、もっと素晴らしい者になろうとし、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になり(創世記3522)、この方に対抗、対立する者になったのだそうです。
そして、アダムの子孫である私たちも、この〔そむき、反逆〕の性質を受け継いで生まれて来ているのだそうです。
 
 だから、そのような、最初の創造の目的から〔的はずれ〕になっているものは、天の神、主にとっては、もはや、喜び、楽しみの存在ではなくなっているはずなのです。
けれども、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、あきらめないで、私たち、人間が、最初の目的のように回復されるよう、ご計画を進められたのだそうです。
 
 この人間の歴史の中で、ひとりの人、アブラハムを選び、このひとりの人から一つの民族を造り、この民族と〔神の民〕となる契約を結ばれたのだそうです。
 そして、その民の中から、ひとりの羊飼いの少年、ダビデを選んでこれを王とし、その子孫の中から、アダムの〔そむき〕の性質を受け継がない〔女の子孫〕として(創世記315)、〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣されたのだそうです。
 
 そして、この方、イエスが33歳の頃、ユダヤ人の指導者たちの妬みとローマ兵を用いて、この方を十字架刑で処刑されたのだそうです。
〔父である神〕は、このイエスの処刑を、すべての人間の、すべてのそむきの罪の処刑とみなしてくださり、すべての人の処罰が終わったものとしてくださったのだそうです。
アダムの〔そむき〕の罪を受け継いでいる、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたものとして、死亡手続きをしてくださっているのだそうです。
 
 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方、〔父である神〕の御思いの深みにまで及んでおられる方(Ⅰコリント210)を派遣してくださるのだそうです。
 この方は、受け入れる者の心に、〔父である神〕が、ひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるしてくださるので、受け入れる者は、この部分において〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になり(エレミヤ3133、エゼキエル362531)、〔父である神〕がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです(ヨハネ1412)。
そして、主イエスを喜びとし(ルカ935)、花婿が花嫁を喜ぶように、心を一つにする者の喜びを喜び合わせてくださるのだそうです(イザヤ625)。
今日も。

 

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求めにふさわしく答えてくださる方によって

私たちの救いの神よ、
あなたの恐るべき御業が、
私たちへのふさわしい答えでありますように。詩編656
 
 だれでも、求めるものは得、
捜す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。マタイ78
 
 黙示録1:(1238
 ルカ91827(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/9:木)
 
 
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちの願いに答えてくださる方。
求めるものには得させ、捜す者には見つけ出させ、門をたたく者には門を開いてくださる方。
私たちの求めにふさわしく答えてくださる方なのだそうです。
 
 
 イエスは、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と仰るのですね(ルカ1113)。
 
 
また、イエスは仰られます。「心の貧しい者は幸いだ。義に飢え渇く者は幸いだ」と(マタイ5:36)。
 
 
 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3522、〔生まれたときからの私〕という私自身である霊は、天の神、主に対立、対抗するばかりで、天の神、主と心を一つにしていく思いの出て来ないもの、天の神、主にさからい、そむくばかり思いしか出て来ないのものであることを認める者は幸いだと言われるのですね。
その場所で求めさえすれば、天の御国、天の神、主の統治のもとに入ることができ、義、神との正しい関係に満ち足りるようになるのだそうですから。
 
 
 〔父である神〕は、〔御子である神〕を人として人の世に送り、この方にすべての人の、すべての罪の責任を負わせて、「神にそむく者」として十字架刑で処刑されたのだそうです。
そして、受け入れる者をこのイエスの十字架刑での処刑に合わされたものとし、その〔生まれたときからの霊〕を処刑されてしまっているものとしてくださるのだそうです。
 
 そのうえで、求める人たちにもうひとりの助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、この方の働きで、受け入れる者の心に、ご自身がひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるして、受け入れる者の心に、ご自身と同じ思いが来るようにしてくださり、受け入れる者がご自身と一つ心になって生きるようにしてくださるのだそうです。
 
 
 受け入れる者は、「日々、自分の十字架を負って」(ルカ923)、〔生まれたときからの私〕という私自身である霊は、イエスの十字架刑に合わせていただいて処刑されているものと認めながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る御思いによって生きる者にしていただけるのだそうです。
 
 今いまし、昔いまし、後に来られる方、初めであり、終わりであり、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエスによって、王国(神の御思いが成っているところ)としていただき、神のための祭司としていただきながら(黙示録156)。
今日も。
 
 
 
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キリストの現れの日、イエスがもう一度来られるとき

彼の来る日に誰が身を支えうるか。

彼の現れるとき、誰が耐えうるか。マラキ書3:2

 

 あなたがたは主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。

主は最後まであなたがたをしっかり支えて、

私たちの主イエス・キリストの日に、

非の打ちどころのない者にしてくださいます。Ⅰコリント1:7~8

 

 ヨハネ3:31~46

 ルカ9:10~17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/8;水)

 

 「あなたがたの尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る」と万軍の主は仰せられるのだそうです。

銀を精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のように。

「先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。

わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」(マラキ3:1~3、7)と。

 

 天の〔父である神〕は、人となられた〔御子である神〕、イエス・キリストによって、受け入れる者を支え、保ち、誰から訴えられても責められるところのない、非の打ちどころがない者としてくださるのだそうです。

 

 御子イエスは、受け入れる者に〔聖である霊〕と呼ばれる方を限りなく遣わしてくださり、受け入れる者の心に〔父である神〕の一人一人に対する御思いを置いてくださって、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きる、永遠のいのちの生き方、天の御国での生き方を生きさせてくださるのだそうですから(ヨハネ3:34~36)。

 

 私たちが生きるのに必要なものは全部、ご自身の側で用意して(マタイ25~34、ルカ9:10~17)。

今日も。

 

 

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