風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

むなしいもの、と、分かっていながら、見てしまうのですね。私たち。

むなしいものを見ようとすることから、
私のまなざしを移してください。
11937

 いろいろな異なった教えに惑わされてはなりません。
食べ物ではなく、
恵みによって強められるのはよいことです。
ヘブル書13:9
 エゼキエル書33:30~33
 申命記15:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/6;火)

 むなしいものと分かっていても、つい、そちらに心が動いてしまします。
さまざまな、いろいろな異なった教えがあります。
それに惑わされないように。
食物に気を取られているよりも、
天の神、主からの恵みによって心を強めていただくように、
と勧められているのですね。

 私たちは、天の神、主の言葉を聞いても、それを、
音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌、を聞くような聞き方で聞いて、
神の言葉に従って行動を起こそうとはしないところがあります(エゼキエル33:30~33)。
必ず成る、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の
御思い、御言葉に心を向けていきたいですね。
今日も。



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父なる神の御思いが私の内にあり、私の思いが父なる神の内にあって

この律法の書をあなたの口から離すことなく、
昼も夜も口ずさみ、
そこに書かれていることを忠実に守りなさい。
ヨシュア記1:8

 幸いなのは神の言葉を聞き、
それを守る人である。
ルカ11:28

 申命記32:44~47
 申命記12:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/5;月)

 聖書を通して示されている神の言葉を口ずさむ、
声に出して言ってみるのはよいこと(申命記32:44)なのでしょうね。

 イスラエルの民の歴史においても証明されていることですが、
「神のひとりのようになろうとし、
善悪を知る者」になっている私たち人間は、
自分の理性による善し悪しの判断のままに、
おのおのが自分の正しいと見えるところに従って行動しているのですね(申命記
128)。
天の神、主の御思いに心を寄せることなく。

 けれども、天の神、主は、
私たちが、ご自身と思いを一つにする者になって、
神の御前で、みんなで
喜び楽しむようにと願っておられるようです(申命記
12712)。

 天の神、主、「『わたしはある』というもの」と名乗られる方は、
私たちが、「的外れ」の存在になっていることを認めて、
エスの十字架刑での処刑を、
その「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊の処刑とし、
死んだものとしていただき、

もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、聖書にも示されている
〔父である神〕の愛の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕の御思いが私たちの内にあるようになり、

また、私たちが、ありのままの、的外れのままの、
本当の心、本心をお話しし、献げて、
私たちの思いが〔父である神〕の中にあるようになって、
思いを一つにして生きる(ヨハネ17:21~23)、幸いな人生を送ってほしいのだそうです。
今日も。

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失われたものを捜し出して、救うために来てくださったのでそうです。この方。

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない。
ヘブル書3:15(2/4の週の聖句)

 慰めよ、
わたしの民を慰めよと、
あなたたちの神は言われる。
イザヤ書40:1

 人の子は、
失われたものを捜して
救うために来たのである。
ルカ19:10

 ルカ8:4~8(9~15)
 詩119:81~88(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/4;Ⅰ日)

 私たち、人間は、天の神、主から、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれににせて」
と思われて造られたものなのだそうです(創世記1:26)。

愛と尊敬をもって、
自由意思で自発的に、
天の神、主が心を一つにしていらっしゃる、
それに加わるように、と。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、その造られた場に留まることをせず、
与えられている自由をもって、もっと素晴らしい者になろうとし、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった(創世記3:5、22)のだそうです。
神の創造の目的から大きく「的の外れた」の者に。

 それで、その、「的外れ」の性格をそのまま引き継いで生まれて来た私たちは、
天の神、主の、善し悪しの判断よりも、
自分の理性による善し悪しの判断のほうが良い、として、
天の神、主の呼びかけを聞こうとしない、
心かたくなな者、うなじのこわい者となっているのだそうです。

 このことは、モーセを通して律法を示され、神の民となる契約をしてから、
エスが生まれるまでの1500年のイスラエルの歴史においても、
実証されていることなのだそうです。

 それで、天の神、主は、私たちにも、改めて、
「今日、神の声を聞くなら、心をかたくなにしないように」と勧めてくださっているようです。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は言われます。
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と。

 そして、この、私たち人間の歴史の中に、
天地万物を創造された方の側におられる〔御子である神〕が
人となって来られたのだそうです。
失われたものを捜し出して救い、慰めるために。

 イエスは、神の言葉を聞いた時の人の反応に4種類あると、話されました。
「種を蒔く人が種まきに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。
すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。
ところが、茨もいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい」と。

 みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、
彼らが信じて救われることがないよう、
その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまう、道ばたのような心の人たち。

聞いたときには喜んで受け入れるが、根がないので、
しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまう
岩の上のような人たち。

 

みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、
この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならない、
茨の中のような人たち。

 

そして、正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、
よく耐えて、実を結ばせる、良い地のような人たち(ルカ8:4~15新改訳)、と。

良い地のような人たちは、天の神、主に言うのですね。
私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。
私はあなたのみことばを待ち望んでいます。
私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。
「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。

たとい私は煙の中の革袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。

あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。
あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。
高ぶる者は私のために穴を掘りました。
彼らはあなたのみおしえに従わないのです。
あなたの仰せはことごとく真実です。
彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。
どうか私を助けてください。
彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。
しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。
あなたの恵みによって、私を生かしてください。
私はあなたの御口のさとしを守ります(詩篇119:81~88新改訳)。

「慰めよ。わたしの民を慰めよ」と言われる方にむかって、
私たちも。
今日も。

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大きな報いがあるのだそうですから

神よ、慈しみはいかに尊いことか。
あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せます。
詩36:8

 自分の確信を捨ててはなりません。
この確信には大きな報いがあります。
ヘブル書10:35

 Ⅰコリント1:26~31
 申命記11:13~32(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/3;土)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と呼ばれる方は、
慈しみをもって私たち人間を思っていてくださる方、なのだそうですね。

私たちを大切に思っていてくださって、
いつも一緒にいたい、
心を一つにする者になりたいと思っていてくださるのだそうです。

けれども、私たち人間の側は、
神がいくら呼びかけても、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)とする者であって、
天の神、主に逆らい、背き、対立するばかり、なのだそうです。

 天の神、主は、このことを、イスラエル1500年の歴史を通して実証したうえで、
ご自身の計画を実行されたのだそうです。

〔御子である神〕が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
その「的外れ」を引き継がない「女の子孫」(創世記3:15)として、
まだ、男との関係をもっていなかった処女マリヤの胎を通して、
人として、人の世に来られたのだそうです。

 〔父である神〕は、この方が、およそ33歳の頃、
当時のユダヤの指導者たちの妬みとローマ兵を用いて、
十字架刑で処刑されたのだそうです。

 そして、この、イエスの受けてくださった処刑を
私たちの処刑とみなしてくださって、
私たち人間が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
「的外れ」の責任を問われることはない、ように、していてくださるのだそうです。

その上で、これを受け入れ、受け取った者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣して、くださるのだそうです。

 この方は、私たちの心に〔父である神〕の、
愛による、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、受け入れる者は、この方によって、
〔父である神〕の愛の思いを同じくし、
愛の心を一つにする者にしていただけるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヘブル10:16)。

 受け入れる者を、イエスの知恵と、義と聖めと贖いと一つにしてくださり(Ⅰコリント1:30)、
ご自身の「子」とし、ご自身の家族として、
神の国を受け継ぐように、と。

 それで、イエスによって完成されたこの救いの確信を捨てて、
ほかの生き方に行ってしまわないように、と勧められているのですね。
この確信には大きな報いがあるのだそうですから。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、働いておられるのだそうです。
「われわれのかたち」(創世記1:26)、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
互いに愛し合い、自由意思で、自発的に心を一つにしておられる、
その一つに、受け入れる者を加えてくださり、
受け入れる者が、イエスと同じように、
心を尽くし、精神を尽くして、神である主を愛し、
思いを一つにする者になり、
地上に神である主の祝福を届けるように(申命記11:13~32)、と。

今日も。



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私たちの知るところは、ほんの一部分にすぎないのだそうですから

人が神に知識を授けえようか。
彼は高きにいまし、
裁きを行われる。
ヨブ記21:22

 皆互いに謙遜を身につけなさい。
なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、
謙遜な者に恵みをお与えになる」からです。
Ⅰペテロ5:5

 マラキ書3:13~18
 申命記11:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句2/2;金)

 私たちは、
人が神に知識を授けようとするようなことなど、ないと思います。

 けれども、私たちは、祈りのかたちをとっているにしろ、
天の神、主に、自分の思っているとおりにするように、と迫っているのですね。
自分の理性による善悪の判断が、神の判断よりも善いから、
あなたは、私の思っているとおりにするべきである、と。

私たちは、世の中の様を見て思います。
「神に仕えることはむなしいことだ。
神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。
悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」、と。

 けれども、天の神、万軍の主は仰せられるのだそうです。
「彼らは、私のものとなる。
わたしが事を行う日に、私の宝となる。
人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
あなたがたは再び、
正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる」(マラキ3:13~18)。

 大牧者イエスが、再び現れるときに、
神の御思いによって生きる者は、
しぼむことのない栄光の冠を受けるのだそうですから(Ⅰペテロ5:4)。

 イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕の愛の心と御思いを、
受け入れる者の心に置いてくださるのだそうですから。
私たちが、神である主を愛し、
御思いの中で生きるように(申命記
111)、と。
今日も。

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命の水を、私たちがただで飲めるよう、用意してくださって

 主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも、
彼らは渇くことがない。
主は彼らのために岩から水を流れ出させる。
イザヤ書4821

 渇いている者は来るがよい。
命の水の欲しい者は、価なしに飲むがよい。
黙示録2217

 Ⅰコリント3;(1348
 申命記
101022(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/1;木)

 エジプトを出たイスラエルの民は、
彼らの不信仰のゆえに、
40年間、荒野の乾ききった地を旅したわけですけれど、
天の神、主が、彼らにいつくしみ深い霊を賜り、
彼らの口から天からのパン、マナを絶やさず、
彼らが渇いたときには、岩から水を出させて、水を与え、
彼らを養われたので、
彼らは何も不足することはなく、
彼らの着物もすり切れず、足もはれなかったのだそうです(ネヘミヤ
9:⒛~21)。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身で、御子の命という代価を支払ってくださって、
私たちにも言われます。

「渇いている者は来なさい。
命の水が欲しい者は、それをただで受けなさい」と。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が、私たちのこの地上での生活を通して、
私たちひとりひとりを通してしようと思っておられることを、
その人の心に、その人自身の願いとし、志として立てさせ、
事を行わせてくださるのだそうです(ピリピ
213)。

 神である主を畏敬し、愛し、
心を尽くし、精神を尽くして神である主に仕え、
主の御思いのとおりの幸せな人生を歩みむようにと(申命記
101213)。

 そして、それぞれの働きに従って
報酬を与えようと思っていてくださるのだそうです(Ⅰコリント
38)。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかなものに忠実だったから、
わたしはあなたにたくさんのものを任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ
252123)、と。
今日も。

私たちを、ご自分の子とするほどに、愛してくださって

主に向かって私は歌おう。
主は大いなる威光を現してくださった。
出エジプト15:1

 御父がどれほど私たちを愛してくださるか、
考えなさい。
それは、私たちを神の子と呼ばれるほどで、
事実また、そのとおりです。
Ⅰヨハネ3:1

 ロマ書4:1~8
 申命記10:1~9(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/31;水)

エジプトを脱出したイスラエルの民、
前には葦の海、
後ろには、追って来たエジプトの王パロが率いるエジプトの戦車と騎兵の全軍。

 その絶体絶命の中で、民はモーセに言ったのだそうです。
「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、
この荒野で、死なせるのですか。
私たちをエジプトから連れ出したりして、
いったい何ということを私たちにしてくれたのです」、と。

 けれども、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
モーセに仰せられたのだそうです。
「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、
海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」、と。

 それで、モーセが、言われたとおりに杖を持った手を海の上に伸ばすと、
天の神、主は、一晩中強い東風で海を退かせ、水を分けられたので、
イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んでいったのだそうです。

 そして、後を追って来たエジプトの戦車隊上に、水を返らせたので、
水は、パロの全軍勢の戦車と騎兵をおおい、
残された者はひとりもいないようにされた。

そこで、モーセイスラエル人は、主に向かって、歌ったのだそうです。
「主に向かって私は歌おう。
主は大いなる威光を現してくださった」(出エジプト14~1~15:1)、と。


〔父である神〕は、私たちを愛し、大切に思っていてくださっていて、
私たちをご自身の「子」にしようと思っておられるのだそうです。

 その手続きとして、〔御子である神〕を、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となった、
「そむき」、「的外れ」(創世記3:5、22)の性質を受け継がない、
〔父である神〕との一つ(創世記1:26、ヨハネ10:30、14:10)の関係を保ったままで、
人として、人の世に来られるために、
「女の子孫」(創世記3:15)として、
男との関係をまだ持っていない処女マリヤの胎を通して、
生まれさせ、

この方が、およそ33歳の頃、
その当時のユダヤ人の指導者たちの妬みとローマ兵を用いて、
この方を十字架刑で処刑し、
私たち、すべての人間の
「そむき」、「的外れ」の処罰が終わったものとしてくださるのだそうです。

そして、このイエスによる贖(あがな)いを受け取った者に、
さらに、もうひとりの助け主(ヨハネ14:16)、
ご自身が、ねたむほどに深く愛し、慕っておられる方(ヤコブ4:5)、
私たちを「神の子」としてくださる
「聖である霊」と呼ばれる方(ロマ8:15)を派遣してくださるのだそうです。

 そして、この方によって、
ご自身が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを、
受け入れる者の心に置いてくださって、
受け入れる者が、愛において、自由意思で、自発的に、
〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにして、
「子」として、「家族」として生きるようにしてくださるのだそうです。

 それで、私たちも歌うのですね。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである。

主が罪を認めない人は幸いである」(ロマ478)、と、
エスによって実現した威光、輝かしい勝利の御業
(みわざ)を。
今日も。