風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神ご自身の満ち満ちたさまにまで、私たちを満たそうと

神が私たちを祝福してくださいますように。
すべてのものが神を畏れ敬いますように
。詩67:8

 あなたがたが
すべての聖なる者たちとともに、
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解し、
神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。
エフェソ書3:18~19

 申命記7:6~12
 申命記9:15~29(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/30;火)

 モーセは言います。
「あなたは、あなたの神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方の聖なる民だからである。
あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民の内から、
あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたを恋い慕って、あなたを選ばれたのは、
あなたがどの民よりも数が多かったからではない。
事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。

しかし、主があなたがたを愛されたから、
また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、
主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、
奴隷の家から、エジプト王パロの手からあなたを贖い出された。

 あなたは知っているのだ。
あなたの神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方だけが神であり、
誠実な神である。
主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。

それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、
これを守り行うならば、
あなたの神、主は、
あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、
あなたを愛し、あなたを祝福し」(申命記7:6~12新改訳)、と。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちを祝福しようと、
その愛の豊かさで満たしたいと思ってくださっている方なのだそうです。
今日も。

私たちに、新しい霊によって、新しい心を創造し

 わたしは彼らに一つの心を与え、
彼らの中に新しい霊を授ける。
エゼキエル書11:19

 キリストと結ばれる人はだれでも、
新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、
新しいものが生じた。
Ⅱコリント5:17

 ルカ19:1~10
 申命記9:1~14(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句1/29;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
愛し合い、尊敬し合っておられて、
互いを大切に思い合い、
自分の思いよりも相手の思いが成ることを願って、
自由意思で、自発的に、思いを同じにし、
心を一つにしておられる方なのだそうです。

 それで、御子である神は、全知、全能の方でありながら、
「自分からは何事もせず、
ただ、〔父である神〕の御思いのとおりを話し、
御思いのとおりに行動しておられるのだそうです(ヨハネ8:28、12:20)。

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
その〔御子である神〕、イエスの思いを受けて行動し、
御子イエスの栄光を現そうとされる方なのだそうです(ヨハネ16:14)。

 そして、〔父である神」、〔御子である神〕は、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をねたむほどに愛し慕っておられ(ヤコブ4:5)、
この方を汚す、冒涜する者は赦さない(マルコ3:29)と仰っておられるのですね。

 そして、〔父である神〕は、そのご自身の愛の中に加わり、
愛し合うゆえに、自由意思で、自発的に心を一つにする者を、と願われて、
私たち人間を創造されたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方と、心を一つにしていく場に留まることを止め、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となって、
自分の理性の善し悪しの判断に従って生きる道を選び取ったのだそうです(創世記3:5、22)。

 それで、アダムとエバの子孫である私たちも、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」、
天の神、主に対抗する者として生まれてきているのだそうです。

 それで、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身の御思いを言葉で、文字で伝えても、心を一つに出来ない私たち人間に、
新しい霊によって新しい心を与え、心の思いのほうから、一つになるよう、
道を開いてくださっているのだそうです。

 〔父である神〕は、人となられた〔御子である神〕イエスが、
私たちに代わって受けてくださった十字架刑での処刑を私の処刑と見なしてくださり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれたときからの霊〕を
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、受け入れる者に、御子イエスを通して〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって私たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕の御思いを思い、一つ心になるようにしてくださるのだそうです。

 エリコの町の取税人の長ザアカイが、
エスが声をかけられ、家に泊まられたことによって、
心を変えられ、
自由意思で、自発的に、自分から、
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と言い出したように(ルカ19:1~10)。
私たちにも。
今日。

気前のいい、慈しみ深く、憐れみに満ちた方を待ち望んで

私たちは、
あなたの深い憐みのゆえに、
伏して、嘆願の祈りをささげます。
ダニエル書9:18

 主を待ち望め、
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。
詩27:14

 あなたがたは、
ヨブの忍耐について聞き、
主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。
主は慈しみ深く、
憐れみに満ちた方だからです。
ヤコブ書5:11

 マタイ20:1~16a
 詩119:73~80(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/28;Ⅳ日)

 バビロン帝国が滅ぼされ、
メディヤ人ダリヨスが、カルデヤ人の王となったその元年、
ダニエルは、預言者エレミヤにあった神である主の言葉によって、
エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が70年であることを、文書によって悟り、
顔を神である主に向けて祈り、
断食し、灰をかぶって、願い求めたのだそうです。


 「このわざわいはすべて、
モーセの律法に書かれているように、私たち上に下りましたが、
私たちは、不義から立ち返り、
あなたの真理を悟れるよう、
私たちの神、主に、お願いもしませんでした。
主はその災いを私たち上に下しました。
私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。
私たちが、御声に聞き従わなかったからです。

 しかし今、私たちの神、主よ。
あなたは力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、
今日あるとおり、あなたの名を上げられました。
私たちは罪を犯し、悪を行いました。
主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、
どうか御怒りと憤りを、
あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。
私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、
エルサレムとあなたの民が、
私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。

 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、
主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。
わたしの神よ。
耳を傾けてください。
目を開いて私たちの荒れすさんださまと、
あなたの御名がつけられている町をご覧ください。
私たちが御前に伏して願いをささげるのは、
私たちの正しい行いによるのではなく、
あなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ。聞いてください。
主よ。お赦しください。
主よ。心に留めて行ってください。
私の神よ。あなた自身のために遅らせないでください。
あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです」(ダニエル9:13~19新改訳)、と。


ウツの地にいたヨブという人。
この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたのだそうです。
そして、天の神、主からの祝福を受け、
7人の息子、3人の娘、
そして、多くの羊、らくだ、牛、ろば、しもべを持っていたのだそうです。

ある日、神である主の前に立ったサタンは、ヨブについて言ったのだそうです。
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。
あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。
彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません」と。

 そこで、神である主は、サタンに仰せられた。
「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。
ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」。

それで、サタンはヨブを打ち、
ヨブは一日のうちに、全財産と息子、娘を失ったのだそうです。

 そのとき、ヨブは立ち上がり、
その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、言った。
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな」。(ヨブ1:1~21)


サタンは、また、神である主に言った。
「皮の代わりには皮をもってします。
人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。
彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」

 

 主はサタンに仰せられた。
「では、彼をおまえの手に任せる。
ただ彼のいのちには触れるな」。


 サタンは主の前から出て行き、
ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中に座った。
すると彼の妻が彼に言った。
「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。
神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。
「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。
私たちは幸いを神から受けるのだから、
わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ2:1~10)

 

 そして、ヨブは自分の潔白を主張し続け、
なぜ、このような目に会うのか、神と論じてみたいと、
神に叫び続けたのだそうです(ヨブ3~31章)。

 

 そして、ついに、神が現れて語ってくださり(38~41章)、
ヨブは神である方の主権を認めて、
神である主に答えて言ったのだそうです。
「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、
私は知りました。

 

 『知識もなくて、摂理をおおい隠す者はだれか。』
まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。
自分で知り得ない不思議を。

 

 『さあ聞け。わたしが語る。
わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。』

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(42:1~6)、と。

 そして、神である主は、ヨブの繁栄を元どおりにされ、
ヨブの所有物を
2倍にされ、
地上に
7人の息子と3人の娘、
天に、
7人の息子と3人の娘をもつものとしてくださったのだそうです(421015)。

 このヨブの忍耐を覚え、
心を強くして、神である主を待ち望み続けるようにと言われるのですね。

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は、
夕方、5時ごろに雇われてぶどう畑に行った者にも、
「ただ私としては、この最後の人たちにも、同じだけ上げたいのです」と、
朝から働いたものと同じ賃金を払ってくれる
気前のいいぶどう園の主人のように(マタイ20:1~16)、
慈しみ深く、あわれみに満ちた方なのだそうですから。
今日も。

主の家に帰り、永遠の命の中を

命のある限り、
恵みと慈しみとはいつまでも私を追う。
主の家に私は帰り、
生涯、そこにとどまるであろう。
詩23:6

 はっきり言っておく。
わたしの言葉を聞いて、
わたしをお遣わしになった方を信じる者は、
永遠の命を得、
また、裁かれることなく、
死から命へと移っている。
ヨハネ5:24

 民数記6:22~27
 申命記8:1~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/27;土)

 私たちの命のある限り、
天の神、主からの恵みと慈しみがいつまでも私たちを追いかけて来るのだそうです。
主の家に帰らせてくださり、
子としてくださり、
ご自身の家族として、
いつまでも主の家に住まわせてくださるのだそうですから。

永遠の命とは、
唯一のまことの神である〔父である神〕と
〔父である神〕が人間の世界に遣わされた〔御子である神〕、
イエス・キリストを体験的に知ること(ヨハネ17:3)なのだそうです。
この方との親しい交わりの中で生きること、なのでしょうか。

エスの言葉を聞いて(それを記録した、あの本「聖書」を読んで)、
エスを遣わされた方、〔父である神〕を信じる者は、
永遠の命(父である神、御子である神イエスとの親しい交わり)の中に入れていただけ、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせてくださって
処罰が終わっている者として、
もう、裁きは残っていない者としてくださり、
死から命に移してくださるのだそうです。

それで、言っていただけるのだそうです。
「天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が
あなたを祝福し、
あなたを守られるように。
主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安をあたえられますように」(民数記6:24~26)、と。

 

「人はパン(食物)だけで生きるのではない、
人は主、「『わたしはある』という者」と呼ばれる方の口から出る
すべてのもので生きる」のだそうです。

私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださり、
三日目に死人の中より新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方。
私たちも、この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって
生きる者にしていただけるのだそうです。
永遠の命、 
〔父である神〕、〔御子である神、イエス〕との親しい交わりの中を。
今日も。

虫けら、役に立たない者、居るだけで場所ふさぎになっている者を招いてくださって

イスラエルよ、
あなたはわたしの僕、
わたしはあなたを選び、
決して見捨てない。
イザヤ書41:9

 神の賜物と招きとは取り消されない。ロマ書11:29

 Ⅰコリント2:6~10
 申命記7:12~26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/26;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は言われるのですね。

しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
わたしが選んだヤコブ
わたしの友、アブラハムのすえよ。

わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、
地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。

「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。

見よ。あなたに向かっていきり立つ者はみな、

恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、
無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争うものを捜しても、
あなたは見つけることばできず、
あなたと争う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、
あなたの右の手を堅く握り、
「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。
恐れるな。虫けらのヤコブ
イスラエルの人々。
わたしはあなたを助ける。
 ――主の御告げ――
あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
あなたは主によって喜び、
イスラエルの聖なる者によって誇る(イザヤ41816新改訳)、と。

 神の賜物と招きとは変わることがなく、
取り消されることもないのだそうです。

それは、私たち、人間の側の善さとか、資格、努力によるのではなく、
私たちの側は「虫けら」のよう、
役に立たない者、無いほうがいい者のであるのに(ルカ16:10)、
天の神、主の側でのあわれみ、
私たちを大事に思っていてくださる、
その御思いに依っているのだそうですから。

 〔父である神〕は、御子である方、
天使の万軍に号令される栄光の主を、
「女の子孫」(創世記
315)として、人の世に送り、
この方を、私たちの身代わりとし、
私たちが赦されるために、
私たちの罪を背負ってほふられる犠牲の小羊として、
木にかけて処刑し、私たちを赦そうとしておられるのだそうです。


 これは、この世界の始まる前から、天地創造の前から、
神ご自身の御心の中で決められていたことであって、
この隠された奥義としての神の知恵を、
この世の支配者たちは、だれひとりとして悟らなかったのだそうです。
もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょうから。

 まさしく、
「目が見たことのないもの、
耳が来たことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」のですね。

 神はこれを、「聖である霊」と呼ばれる方によって
私たちに啓示してくださっているのだそうです(Ⅰコリント
2610)。

 2000
年前の支配者たちと同じように、
今も、この啓示を無視する人たちもいますが、
けれども、私たち、やがて、
このほふられたと見える小羊(黙示録
56)、
手と足に十字架刑での処刑で開いた釘の穴、
わき腹に槍で突き刺された傷跡を持つ方(ヨハネ
20202428
の前に立つことになるのだそうです。

 〔父である神〕は、
私たちのからだの中の「先住民」(申命記
71226)であり、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る者になっている(創世記
3522
「生まれたときからの霊」を、
エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑が済み聖絶されたもの、死んだものとしてくださり、
このイエスをとおして来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって、
〔父である神〕が
私たちひとりひとりを通してしようと思われることを、
私たちひとりひとりがしていく者にしようと
招いていてくださるのだそうですから。
今日も。

神の愛の心が留まるのだそうです。私たちの内にも。

施すべき相手に善行を拒むな、
あなたの手にその力があるなら。
箴言3:27

 世の富を持ちながら、
兄弟が必要な物に事欠くのを見て
同情しない者があれば、
どうして神の愛が
そのような者の内にとどまるでしょう。
Ⅰヨハネ3:17

 黙示録1:(1、2)3~8
 申命記7:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/25;木)

「出直してくれ。明日、あげよう、と友に言うな。
あなたが今もっているなら。」(箴言3:28)、
とも書かれているのですね。

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
ことばや口先だけで愛することをせず、
行いと真実をもって愛する(Ⅰヨハネ3:18)〔父である神〕の御思いを、
私たちの心にも置いてくださるのだそうですから。


 ヨハネは書き送っています。
イエス・キリストは私たちを愛して、
その(十字架刑での処刑で流された)血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、
ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

 見よ。彼(イエス)が、雲に乗って来られる。
すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが
(イエスが死んでいることを確認するため、
ローマ兵がイエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、ただちに血と水が出て来た、のだそうです。
赤血球と血清が分離していたということでしょうか)、
彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。
しかり。アーメン。


 神である主。
今いまし、昔いまし、後に来られる方。
万物の支配者がこう言われる。
「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(ω)である」(黙示録1:5~8)、と。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方と
心を一つにして生きる場から的外れになっている者であり、
余分に持っていて、困っている人を見ても、出し惜しみする心の者です。

〔父である神〕は、その、「的外れ」になっている
私たちの「生まれたときからの霊」を、
エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
死んだもの、処刑された者としてくださり、
これといっさいの関係を持ち続けない(申命記7:1~5)、
これを生かそうとしないでいいようにしていてくださるのだそうです。

エスを通してもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によってご自身の御思いを、心に置いてくださるのだそうです。
それで、出し惜しみする私たちの心にも、
〔父である神〕の愛の御思いが来るのだそうです。

 私たち、自分の内には愛がないことを認め、
出し惜しみする思いも御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、
心に来る〔父である神〕の御思いに、
ついて行くようにしていただけるのだそうです。
天の神、主が恋い慕ってくださる、
主の聖なる民、
宝の民(申命記7:6~8)として。
今日も。

キリストの奥義、秘められた計画があるのだそうですから

主よ、お救いください。
主の慈しみに生きる人は絶え、
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。
詩12:2

 パウロの手紙:
私たちのためにも祈ってください。
神が御言葉のために門を開いてくださり、
私たちがキリストの秘められた計画を
語ることができるように。
コロサイ書4:3

 ヨハネ3:31~36
 申命記6:10~25(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/24;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方の
愛、慈しみに生きる誠実な人、
神のことばによって生きる人は後を絶ち、
人の子らの中から消え去り、
人は互いにうそを話し、
へつらいのくちびると二心で話すようになり、
「われらはこの舌で勝つことができる。
われらのくちびるはわれらのものだ。
だれが、われらの支配者なのか」と言っているのだそうです。

パウロは牢獄から書き送っています。
祈ってください、と。
神が御言葉のために門を開いてくださって、
キリストの奥義、秘められた計画を語ることができるように、と。

 上から来られた方、ナザレ出身の、あのイエスは、
すべてのものの上におられる方、なのだそうです。
地から出る者は地に属し、地のことばを話す。
天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

 この方は、天で見たこと、また聞いたことを証しされるが、
だれもその証しを受け入れない。
そのあかしを受けれた者は、
神は真実であるということに確認の印を押したことになるのだそうです。

 神がお遣わしになった方、上から来られた方は、
〔父である神〕の言葉を話される。
〔父である神〕が
〔御霊〕と呼ばれる方を無限に、限りなく、お与えになるのだそうですから。

〔父である神〕は、〔御子である神〕、イエスを愛しておられ、
万物を御子の手にお渡しになっているのだそうです。

 御子イエスを信じる者は永遠の命を持っているが、
御子に従わない者は、命を見ることがなく、
神の怒りがその上にとどまる(ヨハネ3:31~36)、のだそうです。

 私たち、平和で、繁栄し、食べて満ち足りるとき、
それを与えてくださっている天の神、主を忘れてしまう者、なのですね。
神である主は、ねたむ神、
ねたむほどに愛してくださっている方なのだそうです。

 私たちは、「神のようになり、善悪を知る者」になっていて、
自分の理性を神とし、
自分の理性による善悪の判断によって生きている者です(創世記3:5、22)。

〔父である神〕は、
エスの十字架刑での処刑を、
私自身である「生まれたときからの霊」の処刑とみなしてくださり、
死んだものとしてくださって、
エスを通して派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
心に、ご自身の御思いを置いてくださり、
その、心に来た、
〔父である神〕が正しい、良いとみられることをする者になって、
幸せになるように(申命記6:10~25)と願っていてくださるのだそうです。
今日も。