風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私の心の思いを、ことごとく知っておられる方の御前で、心、安らかに

あなたの御計らいは、
私にとっていかに尊いことか。
神よ、いかにそれは数多いことか。詩139:17

 心に責められることがあろうとも、
神は、私たちの心よりも大きく、
すべてをご存知だからです。
Ⅰヨハネ3:⒛

 ヨブ記2:1~10
 ヨハネ11:17~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/27;火)

 私たちの存在を計画し、
その御思いのとおりに、母の胎のうちで私の内臓を造り、
私の骨を組み立てられた方の御計らいは、
私にとって、どんなにか尊く、
数えることのできないほど多いとこの詩人はうたうのですね。

 

 その、私たちを造られた方が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
さまよい出ている私たちを、
ご自身の家族にし、
愛し合い、ご自分と思いを同じくし、
心を一つにする者に回復しようと計画し、
それを実行してくださっているのだそうです。

 だから、私たち、
自分の心が自分を責めても、
この方、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の御前で、
心を安らかにしておれるのだそうです。
はばかることなく、大胆に、御前に出て行けるのだそうです。
神は、私たちの心よりも大きく、
私たちのすべてを、
私たちの何もかもご存知のうえで、
愛し、いつくしんでいてくださり、
ことばや口先だけの愛でなく、
ご自身が、私たちの身代わりになり、
ご自身の身に私たちの「的外れ」の責任を負って、
十字架刑での処刑を受けてくださっているのだそうですから。

 だから、自分の心がどんなに私を責めても、
サタンが、私たちを告訴し、
神の御前に、どんなに私の「的外れ」を並べ立てても(ヨブ11:17~31)、
私たちは、御子イエスにあって心安らかで、
大胆に神の御前にいることができるのだそうです。

 イエスは、
「わたしはよみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、
決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25~26)
と言うことができるお方なのですから。
今日も。

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悪を、神の栄光の現れに変え

 私たちは先祖と同じく、
不正を行い、主に逆らった。
詩106:6

 私たちを悪い者から救ってください。マタイ6:13

 創世記37:3~4、12~14、23~35(36)
 ヨハネ11:1~16(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句2/26;月)

 私たちも、私たちの先祖と同じく、
アダムの罪を引き継いで、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に
逆らい、対抗して、
自分の理性による善し悪しの判断によって、
自分が正しいと思うことをしていく(士師記17:6)、

創造の目的から「的の外れた」ものになっている者、のようです。

 その、「的外れ」のゆえに、ヤコブは、
4人の妻のうちの最愛の妻、ラケルの子、ヨセフを偏愛し、
兄弟たちは、父の偏愛のゆえに、
ヨセフと穏やかに話すことができなくなっており、
ついに、野で、ヨセフを殺そうと相談し、
殺すのは思いとどまったのですが、
ちょうど通りかかったミデヤン人の隊商にヨセフを売り渡したのだそうです。

 それで、ヨセフはエジプトへ連れて行かれ、
奴隷として売られることになったのだそうです(創世記37:3~36)。
けれども、天の神、主は、
彼らの計った悪を、良いことのための計らいとされ、
多くの人々が生かされるための出来事にしてくださったのだそうです(創世記50:⒛)。

 天の神、主は、呼び求める者を悪い者から救ってくださり、
悪い出来事も、神の栄光が現れる出来事、
神の子がそれによって栄光を受けるための出来事(ヨハネ11:4)に
変えてくださるのだそうです。

 ベタニヤ村のマルタとマリヤの兄弟ラザロの病気のように。
私たちにも。
今日も。

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正しい裁きを行いながら、慈しみとまことを全うして

キリストが
私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。
ロマ書5:8(2/25の週の聖句)

 正しい裁きは御座の基、
慈しみとまことは御前に進みます。
詩89:15

 義のために迫害されている人々は、
幸いである。
天の国はその人たちのものである。
マタイ5:10

 マルコ12:1~12
 詩35:1~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/25;Ⅳ日)

 〔父である神〕は、
独り子である方を私たちの身代わりにして死に渡すほどに、
呪われたものとして十字架刑で処刑してくださるほどに、
私たちひとりひとりを愛していてくださるのだそうです。

 〔御子である神〕は、私たちひとりひとりを愛してくださって、
この、〔父である神〕の御思いを受けて、
天の栄光の座を後にして人の世に来られ、
自分から進んで、私たちの身代わりとなり、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 正義と愛、私たちに対する慈しみを全うするために。

 そして、もうひとりの方、
ねたむほどに愛しておられる方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣してくださって、
心に、私たちひとりひとりに対する御思いを置いてくださって、
愛し合い、思いを同じくし、心を一つにする者としてくださるのだそうです。

 それで、この方の愛を伝えていくとき、

〔御子である方〕、イエスが迫害されたように、
伝える者も迫害されることもあるようです。

 ちょうど、持ち主であるぶどう園の主人から
ぶどう園を借りている人たちに遣わされたしもべが、
はずかしめられ、迫害されたように(マルコ12:1~12)。

 けれども、天の御国はその人たちのもの、なのだそうです。
天の神、主は、迫害する人たちが、
「あははは。われわれの望みどおりだ。
われわれは彼を、飲み込んだ」とは
言わせない(詩篇35:25)のだそうですから。
この新しい週も。

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心の悪を洗い去り、捨て去って

あなたの心の悪を洗い去って救われよ。
いつまで、あなたはその胸に、
よこしまな思いを宿しているのか。
エレミヤ書4:14

 あらゆる汚れやあふれるほどの悪を
素直に捨て去り、
心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
この御言葉は、
あなたがたの魂を救うことができます。
ヤコブ書1:21

 ロマ書6:12~18
 申命記34:1~12(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句2/24:土)

 私たちは、その胸に、よこしまな思い、
天の神、主に対抗し、
天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断で善悪を決めていく者になろうとする思いを持つ者なのですね。

 これは、どんな洗剤を使っても、
どんな漂白剤を使っても
洗い去ることはできないのだそうです。
〔生まれたときからの私〕という霊から、噴き出して来る思いなのだそうですから。

 だから、洗い去るためには、その、出所である
〔生まれたときからの私〕という霊を、殺すしかないのだそうです。

 それで、神の〔御子〕である方が人となって人の世に来てくださったって、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
受け入れる者を、この、イエスに合わせて、
十字架刑での処刑を受けた者、
死んだものと手続きをしてくださるのだそうです。

 その上で、受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いが来るようにしてくださるのだそうです。
 心の悪、よこしまな思いを洗い去ってくださって。

 だから、この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、
「天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断でことの善し悪しを決めて行こうとする」思いは、
そっくり、そのまま、イエスの御前に投げ出し、
捨て去って行けばいいのだそうです。

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
心に植え付けられた御思いを受け入れ、
その御思いのとおりに踏み出してみるのだそうです。

 私たち自身とからだ、その手足を義の器として、神にささげるなら、
御思いが成るために用いていただけるのだそうです(ロマ6:12~18)。

 モーセがエジプトの王パロとその家臣たち、およびその全土に対して、
あらゆるしるしと不思議を行い、
神の力強い権威とおそるべき威力を現したように。
私たちも。
今日も

 

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慰め、救ってくださるのだそうです。私たちの下から、支えて。

この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、
苦難から常に救ってくださった。
詩34:7

 悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。
マタイ5:4

 ヘブル書2:11~18
 申命記33:1~5、26~29(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/23;金)

 貧しい者、悩む者が呼び求め、呼ばわる声を、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は聞いてくださり、
苦難から、すべての苦しみから救ってくださるのだそうです。

 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、
彼らを助け出されるのだそうですから。

 だから、幸いなのだそうです。
貧しい人、悲しむ人々は。
主に身を避け、主に呼ばわるなら、慰めを受け、
主のすばらしさを味わうことになるのだそうですから。

 〔御子である神〕は、
〔父である神〕の御思いに従い、
 大祭司として私たちを執り成し、
私たちを、聖、取り分けられた者、神の子とし、
〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにする者とするために、
私たち人間と同じように、血と肉を持つ者となってくださり、
人として、人の世に来られて、
すべての点で私たちと同じようになってくださったのだそうです。

 ご自身が試みを受けて苦しまれたので、
苦しみにあっている人のことを分かってくださり、
助けてくださるのだそうです(ヘブ2:11~18)。

 私たちがどん底にいたとしても、
さらにその下から私たちを支え、
私たちが〔父である神〕と心を一つにして生きるよう、
 助けてくださるのだそうです。
「永遠の御腕が下に」ある(申命記33:27)のだそうですから。
今日も。

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在ろうと思うとおりに、在られる方が、

 主は言われたことを、
なされないことがあろうか。
告げられたことを、
成就されないことがあろうか。
民数記2319

 イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえ、
「信仰の薄い者よ、
なぜ疑ったのか」と言われた。
マタイ1431

 ヤコブ書
4110
 申命記3118(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句2/22;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方。
「ありて、ある者」、
「あろうと思うとおりに、ある」ことが出来る方。
その方が、こうすると言われたことを
なされないことがあるだろうか、というのですね。

 天の神、主は、モーセの、出エジプトの時、
海の水を分け、民を海の底を渡らせたのだそうです。

 そして、イエスは、ガリラヤ湖の水の上を歩いて、
弟子たちの舟に近づかれたのだそうです。
すると、ペテロが
「主よ。もし、あなたでしたら、
私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」というと、
エスは「来なさい」と言われ、
ペテロは舟から出て、
水の上を歩いてイエスのほうに行くことが出来たのだそうです。

 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので、
「主よ。助けてください」と言ったので、
エスはすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、
船に乗り移られたのだそうです。

 イエスの弟のヤコブは言います。
「神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
二心の人たち。
心を清くしなさい」(ヤコブ4:8)、と。

 「清く」、ピュア(pure)、純粋に、混じりけがない、単一な心に。
苦しいなら苦しいだけ、
悲しいなら悲しいだけ、泣きたいならなきたいだけ、
憂いているなら憂いだけの心に成り切って、
直心、
その時その時の本当の心に成り切って、
神に近づきなさい、と。

 へりくだって、自分のありのままの、
罪のままの、
信仰などない自分を認めて、
天の神、主にお願いしていきなさい、と。
そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます(ヤコブ4:9~10)、と。

 「天の神、主、「『わたしはある』と名乗られる方」、
「こうする」と言われたら、そのとおりになさる方、
その方ご自身が、私たちの先を進まれる。
主が私たちと共におられる。
主は私たちを見放さず、私たちを見捨てられない」(申命記31:8)方、
なのだそうですから。
恐れているなら、恐れているまま、
おののいているなら、おののいているまま、


手ぶらでも、何も持たないままでも、
 御思いの中に一歩、踏み出して行けば、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が共にいて、

先に進み、しんがりを守り、

御業を実現してくださるのだそうですから。

今日も。

 

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私たちの先を進み、しんがりも守ってくださるのだそうです。この方が。

あなたたちの先を進むのは主であり、
しんがりを守るのもイスラエルの神である。
イザヤ書52:12
 
 私たちは聞いたことに
いっそう注意を払わねばなりません。
そうでないと、
押し流されてしまいます。
ヘブル書2:1

 申命記8:11~18
 申命記30:11~20(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句2/21;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は
イザヤを預言者として立てて言われます。


「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。
逃げるようにして去らなくてもよい。
主があなたがたの前に進み、
イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:12新改訳)、と。

 私たちの救いは、〔父である神〕ご自身が計画し、
〔御子である神〕がその手続きを完了され、
約束のとおりに〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者に来られて実現してくださるのだそうですから。

 〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で自発的に
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにしておられるように、
私たちも〔父である神〕と思いを一つにする者へと。

 神さまの側で、一方的に、全部、用意していてくださって、
私たちは約束のことばに信頼して、
ただ、受け取ればいい、もらえばいいのだそうですから。

 だから、聞いた約束のことばにいっそう注意を払い、
心に留めて、押し流されないように、と注意されているのですね。

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、
その、〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
処刑されたもの、死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きる、
新しい生き方をいただいているとはいえ、
常に、この、〔生まれたときからの私〕という霊から心に来る、
自分の理性で事の善し悪しを判断し、
自分の理性による判断で生きようとする、
元の生き方に帰ろうとする者、なのですから。

 私たちは、食べて満ち足り、
立派な家に住み、
富がまし、生活が安定すると、
心高ぶり、
神である主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を忘れ、
心のうちで、
「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言い出す者、
なのですから(申命記8:11~18)。

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、
自分の創造主を無視して、自分の理性を神としていく者のようです。

それで、私たちは、
「救いのことばを、だれが天に上り、
あるいは、地の奥底、海のかなたに行って、
取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」とうそぶくのですが、
いのちと幸い、死とわざわいの道は、私たちの身近に、目の前にあるのだそうです。

もし私たちが口でイエスを主と告白し、
心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださるのだそうですから。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」
のだそうです(申命記30:11~20、ロマ10:5~13)。

 イエスの十字架刑での処刑と、死者の中からの復活によって実現した、
〔聖である霊〕と呼ばれる方により、
〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして生きる、
新しい契約は(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ルカ22:17~20、ヨハネ17:21~22、)、
有効なのだそうですから。
今日も。

 

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