風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自由があるのですね。主の御霊のおられるところに

私の魂を枷(かせ)から引き出してください。  あなたの御名に感謝することができますように。詩編142:8

 

 

 

主の霊のおられるところに  自由があります。Ⅱコリント3:17

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      (ローズンゲン日々の聖句1/27;火)

   心に思ったことに制限がかかると不自由を感じる。 心のままをやっていければ自由を謳歌する。

 

 あの方との一つを嫌って、自分の理性だけで善悪を決定する者となった、生れたときからの私という霊から来る思いは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものなのですね(ガラテヤ5:19~21)。

 だから、このような心のままを行っていったら、まさしく、地は暴虐で満ちていくことになるのでしょうね。

ノアの洪水の前の世界のように(創世記6:11)。

 

 けれども、イエスの十字架刑による処刑に合わせていただいて、処刑済みの手続きを受け取った人に派遣されて来る聖である霊と呼ばれる方から私たちの心に来る思いは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)なのですね。

 

 思うべき限度を超えて思いあがることなく、神が各々に分け与えて下さった信仰のはかりに応じて、慎み深い考えをし、与えられた恵みのプレゼントに応じて行動していきたい思いなのだそうです。

 悪を憎み、善に親しみ、兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっている者と思い、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え、望みを抱いて喜び、患難に耐え、自分一人の考えでことを決めないで絶えず天の父と相談しながらことを進め、旅人をもてなし、迫害する者を祝福し、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き、自分こそ知者だと思うような高ぶった思いを持たず、悪に悪を報いることをせず、全ての人が良いと思うことを図り、自分に関する限り、全ての人と平和でありたいと思う思いなのですね。

 復讐は神の怒りに任せ、敵が飢えたなら、彼に食べさせ、渇いたなら、飲ませ、善をもって悪に勝って行きたいと思う思いなのだそうです(ロマ12:3~21)。

 

 

 それで、イエスは、このような御父の思いのままに、自由にやって行かれたわけなのでしょうけれど、聖である霊と呼ばれる方は、私たちの心にも、このような思いを書き付けて下さるのだそうですから、これらの思いのままにやっていくとき、私たちは自由と解放を感じるのでしょうね。

 

 まさしく、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放して下さっているのですね(ガラテヤ5:1)。 今日も。

 

 

 

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