トコトコと、羊飼いの声について行って
わたしは良い羊飼いである。
わたしは羊の声を聞き分ける。
わたしは彼らに永遠の命を与える。ヨハネ10:11、27~28(4/15の週の聖句)
主よ、憐れんでください。
私は嘆き悲しんでいます。
主よ、癒してください。
私の骨は恐れ私の魂は恐れおののいています。詩6:3、4
‟霊“は弱い私たちを助けてくださいます。
私たちはどう祈るべきかを知りませんが、
‟霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって
執り成してくださるからです。ロマ8:26
ヨハネ10:11~16(27~30)詩87(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句4/15;Ⅲ日曜)
人の歩む道は主の御目の前にある。箴言5:21
イエスの言葉:
わたしは良い羊飼いである。
私は自分の羊を知っており、
羊もわたしを知っている。ヨハネ10:14
ヨハネ10:1~10
エフェソ書3:14~21
(ローズンゲン日々の聖句4/16;月)
イエスは、ご自分のことを羊飼いに、
そして私たち人間を羊にたとえておられるのですね。
羊は、視力が弱くて迷いやすく、
武器になるものも持たず、
ひっくり返ったら自分で起き上がることもできないものなのだそうです。
朝、羊飼いは囲いの中から羊を、
その一匹一匹の名を呼んで呼び出し、
羊の先頭に立って行くと、
羊は自分の羊飼いの声を聞き分けて羊飼いの後をついて行くのだそうです。
羊飼いが導く緑の草の多い草原へ、
いこいの水のほとりへと(詩篇23)。
イエスは、私たちを永遠の命、
〔父である神〕との信頼関係、
親しい交わりの中へ導いてくださり、
〔父である神〕との親しい関係の中で生きるようにしてくださるのだそうです。
永遠の命とは、
唯一のまことの神と、
その神が遣わした〔御子なる神〕イエスを体験し、知ること(ヨハネ17:3)
なのだそうですから。
私たちは、最初の人アダム以来、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
神のひとりのように、
全知、全能、永遠不変の者になろうとする性質をもっている者で、
自分の理性の善し悪しの判断のままに生きる者です。
けれども、実態は、全知でも全能でもなく、
また、死をもってすべてを失う者にすぎません。
それで、いろいろな困難な体験の中で、あるいは死に直面して、
自分がそういう者であることを認めた者は、
創造主である天の神、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に、
「主よ。憐れんでください」と願っていくようにもなるのだそうです。
私たちの身代わりになり、
私たちのそむき、「的外れ」の責任をご自分に負って、
神に呪われた者となって、十字架刑での処刑を受けてくださった方、
イエスにより頼んで。
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死人の中より新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国について語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが、受け入れる者に派遣してくださる‟霊“、
〔聖である霊〕と呼ばれる方も、
私たちに代わって、言葉に表せないうめきをもって、
〔父なる神〕にとりなしてくださるのだそうです。
神である主は、私たちの歩むすべての道を見ていてくださるのだそうですから。
それで、使徒パウロも記しています。
「こういうわけで、私はひざをかがめて、
天上と地上で家族と呼ばれているすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、
御霊により、力をもって、
あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、
あなたがたの信仰によって、
あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、
その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを
理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、
あなたがたが満たされますように」(エペソ3:14~19新改訳)と。
私たちはそのように執り成していただいている者なのだそうですから。
今日も。
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