この方を待ち望んで
「主こそ私の受ける分」と私の魂は言い、
私は主を待ち望む。哀歌3:24
キリストのお陰で、
今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。ロマ5:2
ヨハネ15:9~17
ルカ21:5~19(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/29;水)
滅びてしまうはずだったのだそうです。私たち人間は。
私たちの悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
これを思い出しては沈むばかり。
私たちが滅び失せなかったのは、天の神、主の恵みによることなのだそうです(哀歌3:19)。
自分の〔的外れ〕な生き方の行きつく先は滅びでしかなかったのだそうですが、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちを、なお、惜しみ、愛し、憐れんでくださったのだそうです。
それで、〔御子である神〕と呼ばれる方が、預言の言葉のとおりに、
天の栄光の座を後にして、
ダビデの子孫として生まれる、〔女の子孫〕として、
人間イエスとして人の世に来てくださり、
救い主、キリストとして、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちが神のもとに帰る道を開いてくださったのだそうですから。
私たちは、この、キリストであるイエスが自分のいのちを差し出して完了してくださった(ヨハネ19:30)手続きによって、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えする者ともしていただき、神の子の身分を与えていただけ、神の家族として、〔父である神〕と心を一つにする者にもなり、神の同労者と呼ばれる栄光をいただく者ともしていただけるのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕が、私たち一人一人を愛し、大事に思っていてくださる、その御思いが、私たちの心にも来て、私たちも、互いを大切に思い合う者ともしていただけ(ヨハネ15:9~17)、
口から出る言葉も、〔父である神〕が語ろうとしておられることを話す者ともしていただけるのだそうです(ルカ15:14~15)。
〔御霊〕を無限に与えられた(ヨハネ3:34)イエスが、
「わたしがわたし自身からは何事もせず、
だだ、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」と言われた(ヨハネ8:28)、そのように。
今日も。
イエスがしようと思うことを何でもしていく者に
しようと思うことは何でもしなさい。
神があなたと共におられるのです。サムエル記上10:7
何を話すにせよ、行うにせよ、
すべて主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイ書3:17
ヨブ記9:14~23
32~35 ルカ21:1~4(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/28;火)
イスラエルに王がなかったころ、
天の神、主は、民の中から士師を立ててさばきつかさとし、
士師は神に聞きながら民の問題を解決していました。
けれども、民は周りの国々のように王がいればと、
王制の弊害を説く預言者サムエルに、
「いや、どうしても、私たちの上に王がいなくてはなりません。
私たちも、ほかのすべての国民のようになり、
私たちの王が私たちをさばき、
王が私たちに先立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」と王を立てるよう迫ったのだそうです。
天の神、主は、サムエルに、
「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。
それはあなた(サムエル)を退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と言われ、サムエルを通して、イスラエル第1代目の王、サウルが立てられることになりました。
あなたはイスラエルの王となるというサムエルの言葉が信じられなくて、
「どうしてあなたはこのようなことを言われるのですか。
私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。
私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか」と答えるサウルにサムエルは言います。
「あなたが、ペリシテ人の守備隊のいる町、神のキブアに入るとき、高きところから降りてくる預言者の一団に出会います。
彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
このしるしがあなたに起こったら、手あたりしだいに何でもしなさい。
神があなたとともにおられるからです。」(サムエル8:1~10:7)と。
「しようと思うことは、手あたりしだい何でもしなさい」とは、〔ともにおられる神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる〔思うこと〕は、ということのようですね。
事実、サウロは、サムエルから「私が着くまで7日間、そこ(ギルガル)で待たなければなりません」と言われていたのですが(Ⅰサムエル10:8)、ペリシテ人が攻めて来て、サウロは、ギルガルで、7日間、待ったのですが、サムエルは来ず、民は逃げて行こうとするので、サウロはサムエルを待ちきれず、ついに、自分で全焼のいけにえと和解のいけにえを神にささげたのだそうです。
神のことばに従わず、自分の理性の判断に従って行動した、このことが、サウロが王位から退けられることにつながったのだそうですから(Ⅰサムエル13:5~15)。
私たちも、〔聖霊を受ける〕と、今までの律法の束縛から解放され、〔生まれた時からの私〕という私自身も生き生きとし、元気になり、今までの、人に気を配りながら、おずおずとではなくなるので、主の思われるとおりにではなく、自分の思いのとおりにして、人をけとばしていくことにもなりやすいようです。
しっかりと、〔生まれた時からの私〕は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとなっており、〔生まれた時からの私〕から来る思いは、死んだものから出て来ている思いであることを認めて、神の前に差し出し、お渡しし、〔聖である霊〕と呼ばれる方から心に来る〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる、その御思いについて行く生き方を理解しておかないといけないようです(ガラテヤ5:24~25)。
もし、王であれば、御思いのとおりに、手あたりしだい何でもしていいのでしょうが。
義人ヨブは、原因が自分には思いあたらない激しい苦しみの中にあって、神と自分との間を〔仲裁する者〕を望んだのだそうですが(ヨブ9:33)、
その仲裁者として、〔御子である神〕が人間イエスとなって人の世に来てくださり、
和解のいけにえとして、ご自身の身を十字架刑での処刑に差し出してくださって、
天の神、主と私たちすべての人間の仲裁をしてくださいました。
そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思ってくださっている御思いを置いてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。
あの、レプタ銅貨二つをささげたやもめも(ルカ21:1~4)、その、〔聖である霊〕によって心に置かれた御思いによって生きる人だったのでしょうか。
私たちも、イエスの御名によって、イエスの代理人として、それぞれの、心に置いていただく、イエスがしようと思われる御思いを、そのとおりにしていく生き方をさせていただけるのだそうです。
今日も。
眠ることもなく、まどろむこともなく、見守ってくださりながら。
希望があるのだそうです。私たちの未来にも。
イエスを死者の中から復活させ、天上のあらゆる名の上に置かれて
知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊が来てくださって
回復し、建て直してくださり