風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

価なしに、金を払わないで、飲んでいいのだそうです。

神よ、あなたは私の神。
 私はあなたを捜し求め、
 私の魂はあなたを渇き求めます。詩編63:2

 

 キリストの言葉:
渇いている者には、
 命の水の泉から価なしに飲ませよう。黙示録21:6

 

 

              (ローズンゲン日々の聖句7/2;木)

 


 私たちは、天の神、主の御思いを心に置いていただき、その思いのように生きる者に、

御思いをこの地にもたらす者にと望まれているようですね。

 


 困ったときの神頼みと言う言葉がありますが、

確かに、私たち、平穏無事、順調な時よりも、大きな困難に直面し、

自分の力に余るような問題の前でたじろぐときのほうが、神のほうに心を向けやすいもののようです。

 


 ダビデも、サウル王から命を狙われ、ユダの荒野を逃げ回っているとき、この詩を詠んだのだそうです。

 


 自分の力の限界を体験し、自分が造られた者に過ぎないことを知るとき、

私たち、永遠の世界に心が向く者のようですね。
 私たちの魂は、私たちを創造された方を探し求めるようになり、

私たちを創造された方は、私たちに、

永遠の命の水の泉から自由に飲ませようとしていて下さっているのだそうです。
 価なしに。

 


 自分の命のあがない代を支払えるものは誰もいませんが、
その自分の命を買い戻せない私たちに代わって、
 天の神、主の側で、すでに、支払って下さっているのだそうです。
 独り子であるイエスの命を私たちの命のあがない代として。

 


 それで、贖い代が支払われ済みになっている今は、

私たちが求めさえすれば、捜しさえすれば、

「聖である霊」と呼ばれる方が私たちの内に来て下さり、

私たちの腹(はらわた)から生ける水の泉が涌き出し、

河々となって流れ出るようにしていただけるのだそうです(ヨハネ7:38)。

 


 この方の働きによって、私たちの心に、天の神、主の、

私たち一人一人に思っておられる御思いが来るのだそうです。
そして、私たちがその御思いについて行くなら、
 私たちは、御思いと一つ思いになって、
 御思いのとおりに、この世界を支え、治め、管理し、前進させていくようになるのだそうです(創世記1:26)。
からだにいろいろのな器官があるように、

ひとり一人に思って下さっている、その各々の分に応じて(Ⅰコリント12:19~27)。

 


 あなたに、やって欲しいことがあるよっておっしゃっておられるのですね。

あの方。

今日も。

 

 

 

 

 


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