風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ご自分の名をもって呼んで下さり、高く上げて、

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、

あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。ルカ10:16(6/18の週の聖句)

 

 彼はわたしの名を知る者だから、

彼を高く上げよう。詩91:14

 

 勝利を得る者を、私の神の神殿の柱にしよう。

彼はもう決して外へ出ることはない。

わたしはその者の上に、私の神の名を書きしるそう。黙示録3:12

 

 ルカ16:19~31

 詩13(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/18;Ⅲ日)

 

 イエスが弟子の中から70人を選んで、ご自分が行くつもりの町や村へお遣わしになるとき、このようにおっしゃられて送り出されたのだそうです。

遣わす者をご自分と一つになっているものとして扱ってくださっているのですね。

 

 イエスと〔父である神〕との関係自体が、この、遣わされるものと遣わしたものとしての、一つになっている関係だったのだそうです。

エスは〔父である神〕から遣わされたものとして、

〔父である神〕と思いを一つにし、

〔父である神〕が言おうとされていることだけを語り、

〔父である神〕がしようとされることだけを、そのとおりにしていかれたのだそうですから。

 

 それで、イエスは、

「わたしが天から下って来たのは、自分の心を行うためではなく、

わたしを遣わした方のみこころを行うためです」(ヨハネ6:38)とか、

 

「わたしは自分からは何事もせず、

ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(8:28)とか、おっしゃられ、

 

それで、「わたしと父とは一つです」(10:30)と言うことができた方なのですね。

 

 そして、〔父である神〕が、御子イエスを高く上げ、

エスを死者の中からよみがえらせ、

天上においてご自分の右の座に着かせて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、

また、今の世ばかりでなく、次の世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれたように(エペソ1:20~21)、

エスも、ご自分と思いを一つにする、ご自分が遣わした者を高く上げ、

ご自身の名をもって呼ばれる者とし、

ご自身と同じ栄光で輝かせてくださるのだそうです。

 

 

毎日、ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの門前で寝ていた、

全身おできができ、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思うほどの貧しいラザロも、

死んだあと、御使いによってアブラハムのふところに連れて行かれ、

イスラエル民族の始祖アブラハムと同じ栄光にあずかっていたように(ルカ16:19~31)。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

エスの十字架刑での処刑を自分の、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)となっている、〔生まれた時からの私〕という霊を、処刑されたもの、死んだものとしていただき、

エスが遣わされる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

この方によって〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、

〔父である神〕と思いを一つにし、〔父である神〕がその人を通してしようと思われることをしていくようになった者を決して忘れられることなく、

主を喜び歌うようにしてくださる(詩篇13編)のだそうですから。

この新しい週も。

 

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