風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

この御救いは、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄、なのだそうです

主は私たちの神、
主の裁きは全地に及ぶ。
詩105:7

 光が世に来たのに、
人々はその行いが悪いので、
光よりも闇の方を好んだ。
それが、もう裁きになっている。
ヨハネ3:19

 ヨハネ1:1~5(6~8)9~14
 ヘブル書1:1~3(4~6)
 ルカ2:29~32(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/26;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方。
この方こそ、私たちの神、主。
この方の裁きは全地に、すべての人に及ぶのだそうです。

光が世に来ているのに、
私たちは、光よりも闇を愛するのですね。
悪いことをする者は光を憎み、
その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方へ来ないで。
ちょうど、アダムとエバが、
「あなたはどこにいるのか」と呼びかける神から身を隠し、
園の木の間に身を隠したように。
このこと自体が、
私たちが「的外れ」になっている結果であり、
裁きになっている、というのですね。

 

〔神の御子〕であられる方が、
人間イエスとして、人の世に来られたのだそうです。
使徒ヨハネは記しています。

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。
  ~~
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:1~5、9~14新改訳)、と。


ヘブル書の記者は記しています。

神は、むかし父祖たちに、
預言者たちを通して、
多くの部分に分け、
また、いろいろな方法で語られましたが、
この終りの時には、御子によって、私たちに語られました。

 神は、御子を万物の相続者とし、
また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、
また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられます。
また、罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:1~3)、と。


 この御子である方、イエスが、
私たちに代わって、
私たちが受けるはずの十字架刑での処刑を受けてくださっているので、
私たちは、このイエスに合わせられたものとしていただけ、
処罰が終わっているものとしていただけるのだそうです。

 そして、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者に来て下さり、
私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを
置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は、
〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして、
〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者に
していただけるのだそうです(創世記1:26、ヨハネ17:21~23、14:12)。

エスが〔父である神〕と心を一つにしておられ、
〔父である神〕がしようと思われることだけをしておられたように(ヨハネ5:30、8:28)。

 イエスによる、この御救いは、
〔父である神〕が万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄(ルカ2:31~32)なのだそうですから。
今日も。