風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

義としてくださり、永遠のいのちの希望によって、相続人に

わが民は二つの悪を行った。
生ける水の源であるわたしを捨てて、
無用の水溜を掘った。
水をためることのできない
こわれた水溜を。
エレミヤ書2:13

 

 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛して、
私たちの罪を償
(つぐな)ういけにえとして
御子をおつかわしになりました。
ここに愛があります。
Ⅰヨハネ4:10

 

 ヨハネ1:1~5、9~14(16~18)
 テトス書3:4~7
 ルカ1:46~55(通読箇所)
  (ローズンゲン日々聖句12/25;水 降誕祭)


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は
嘆いておられるのですね。
ご自身の民が二つの悪、
生ける水の源であるご自身を捨て、
水をためることもできない水溜を掘り、
これに拠り頼んでいる、と。

 

 そのような私たちを、なお、見捨てないで、
大切に思ってくださり、
私たちの罪、「的外れ」を償(つぐな)う代価として
御子である方を人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たちの身代わりとして十字架刑で処刑し、
この方のいのちをもって
私たちを処罰が終わっている者とし、
ご自分の子として受け入れてくださるのだそうですから。


 初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
 

 この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。

 

 すべての人を照らすそのまことの光が
世に来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分の国に来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々は、
血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
神によって(新しく)生まれたのである。

 

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:1~5、9~14新改訳)


 私たちの救い主なる神のいつくしみと
人への愛が現れたとき、
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、
ご自分のあわれみのゆえに、
聖霊による、新生と更新との洗いをもって
私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、
私たちの救い主なるイエス・キリストによって、
私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって
義と認められ、
永遠のいのちの望みによって、
相続人となるためです。(テトス3:4~7)

 

 

それで、イエスをみごもったマリヤはうたうのですね。
「わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑(いや)しいはしために
目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これからのち、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださいました。
その御名は聖(きよ)く、
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、
代々にわたって及びます。」(ルカ1:46~50)、と。


 私たちも、
私たち自身である、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになっている」
〔生まれたときからの私〕という霊から出た業は、
役に立たない、
水をためることのできないこわれた水溜のようであることを認めて、
エスによって実現した
【父である神】の愛とあわれみの中へと。
今日も。

 

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