風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

弱さを感じ、逃げ出したくなる、その場所でこそ

モーセは神に言った。
「私は何者でしょう。
どうして、ファラオのもとに行き、
しかもイスラエルの人々を
エジプトから導き出さねばならないのですか。」

 

神は言われた。
「わたしは必ずあなたと共にいる。」
出エジプト記3:11~12

 

 

 わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。
Ⅱコリント12:9

 

 ヨハネ4:19~26
 マタイ12:22~32(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句8/28;水)

 

 かつて、40歳のころ、
モーセは、エジプトでのイスラエルの人々の苦役を見て、
自分の力でイスラエルの人々を救おうとしたのですね。

 しかし、その時は、
イスラエルの人々からは
「だれが、あなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか」と拒否され、
エジプトの王、ファラオからは殺そうとされて、
命からがらエジプトを脱出し、
ミデヤンの地で羊を飼う者となり、
40年がたっていたのですね。

 

 それで、天の神、主から
「今、行け。わたしはあなたをパロ(ファラオ)のもとに遣わそう」と言われても、
自分にそんなことができるとは全然思えず、
尻込みするしかなかったのでしょうね。

 

 けれども、神は言われます。
「あなたではなく、わたしがあなたと共にいてことを行うから」、と。

 

 そのように、天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方の恵みは
私たちに十分に届いている、というのですね。

 

 そして、神の力は、私たちの弱さの中でこそ、
十分に、完全に現れる、発揮されると言われる。

 

 「的外れ」になっている、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の力が弱くなればなるほど、
天の神、主の力が発揮されるようになる、ということのようです。

 

 

 キリストと呼ばれるメシヤ(メサイア)としてイエスが来られて、
私たちの身代わりとなり、
私たちの「的外れ」、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
天の神、主に対立、対抗している、
その責任をご自身の身に負って十字架刑での処刑を受けてくださり、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑された者、死んだものとしていてくださる今は、

 

 【聖である霊】と呼ばれる方が私たちに来られて、【
父である神】の御思いを私たちの心に置いてくださり
(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28)、

 

 受け入れる者が、
ゲリジム山の神殿ででも、エルサレムの神殿ででもなく、
霊とまこと(ほんとう)によって
【父である神】を礼拝するようになるのだそうですから(ヨハネ4:19~26)。

 

 だから、十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
ご自身が確かに生きていることを見せ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】の右の座に帰られた
エスが派遣してくださるこの方、

【聖である霊】と呼ばれる方に逆らい、
あるいは、この方を無視する者は
このことにあずかることがない(マタイ12:22~32)のですね。

 

 私たちも、いよいよ、
自分の弱さ、力の足りなさを感じる場所で、
一歩踏み出してみて、
この方による神の力の現れを体験する者に。
今日も

 

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