イエスと一緒に踏みとどまる者に
エリヤへの主の言葉: わたしはイスラエルに7千人を残す。 これは皆、バアルにひざまずかず、 これに口づけしなかった者である。列王記上19:18
弟子たちへのイエスの言葉: あなたがたは、 わたしが種々の試練に遭ったとき、 絶えずわたしと一緒に踏みどどまってくれた。ルカ22:28
ヘブル書9:11~15 ルカ22:31~38(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句4/5;水)
イスラエルに、近隣諸国の神、バアル礼拝が満ちたとき、 預言者エリヤは天の神、主に訴えて言いました。
「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。 しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、 あなたの預言者たちを剣で殺しました。 ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとしています」と。
これに対して、主は、 イスラエルにバアル礼拝をしない者、7千人を残しておくと答えられたのだそうです。
そして、エリヤは、主が命じられたとおりに、ダマスコに帰り、 ハザエルに油を注いでアラムの王とし、 ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とし、 エリシャに油を注いで自分の後継者としたのち、 死を見ることなく、火の戦車に迎えられ、たつまきに乗って天に移されたのだそうです。
イエスは、試練に遭ったときにも、イエスのもとに踏みとどまり、 イエスと一緒にいて、イエスについて行った弟子たちに、 「わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着く」と仰られました。
イエスは、キリスト(救い主)として、ただ一度、天のまことの聖所に入り、 ご自分の血をささげて、贖いを成しとげ、 私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、 生ける神に仕える者にしてくださり、 永遠の資産を受け継ぐ者にしてくださるのだそうです(ヘブル19:11~15)。
また、イエスご自身が、 私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださり、 立ち直らせてくださるのだそうです。 三度もイエスを知らないと言って自分を守ったペテロのときのように(ルカ22:31~32)。 今日も。
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私の全部を探り知る方が、
私は言う。
「闇の中でも主は私を見ておられる。
夜も光が私を照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放つ。詩139:11~12
私たちがイエスから既に聞いていて、
あなたがたに伝える知らせとは、
神は光であり、
神には闇が全くないということです。Ⅰヨハネ1:5
ヨブ記19:21~27
ルカ22:24~30(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句4/4;火)
私たちが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から身を隠そうとして、
「おお、闇よ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、
天の神、主にとっては、闇も暗くはなく、暗闇も光も同じことなのだそうです。
それは、この方が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた方。
胎児の私を見られ、この方の書物に私のすべてが書きしるされたのだそうですから。
私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに(詩篇139:7~16)。
天の神、主は、光そのものであり、回転の影とか闇の部分が全くない方なのだそうです。
だから、私たちが、神と交わりがあると言っていながら、
しかも、隠し事をし、闇の中を歩いているなら、
私たちは偽りを言っていることになるのだそうです。
もし、自分には罪がないと言うなら、私たちは自分をあざむいており、
真理は私たちのうちにはないのだそうです。
けれども、私たちが自分の罪を言い表し、神さまの前に差し出し、見ていただき、
明るみの出来事、光の中の出来事としていくなら、
御前には、私を贖(あがな)う方がいてくださり(ヨブ19:21~27)、
私たちの罪、的外れの責任を、全部、ご自身に受け取ってくださって、
ご自分の罪、的外れとして、その罰をご自身に受けてくださっているのだそうです。
だから、私たちは安心して、自分の罪、的外れをありのまま、そのままこの方の前に差し出し、光の中の出来事、明るみの出来事として大丈夫なのだそうです(Ⅰヨハネ1:5~9)。
天の神、主は、私たちの罪、的外れの存在であることを良く知っておられ、
憐れみをもって、イエスによる救いを用意していてくださるのだそうですから。
自分の的外れの実態を認め、この、神さまの憐れみの中に生きる者は、
心の中にある、自分が他の人よりも、少しでも偉い者になろうとする思いも、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑された、死んだ、〔生まれた時からの私〕という霊から出て来ている思いであることを認めて、
これをそのままイエスの御前に差し出し、受け取ってもらい、
明るみの出来事としてもらいながら、
イエスがそうであったように、
〔聖である霊〕が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いのとおりに、
仕える者にもしていただけるのだそうです。
イエスの御国で、イエスの食卓で食事をする者とも(ルカ22:24~30)。
今日も。
預言のとおりに、仕えるため、命を献げるために来られた方
人の子は、仕えるために、
また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために
来た。マタイ20:28(4/2の週の聖句)
見よ、
わたしは苦しみの炉でお前を試みる。イザヤ書48:10
パウロの手紙:
私たちは生きている間、
絶えずイエスのために死にさらされています。
死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。Ⅱコリント4:11
マルコ10:35~45
詩22:1~22(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句4/2;日)
イエスが生まれる550年ほど前に書かれたダニエルの預言。
その預言の中にあるのですね。
「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、
諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、
過ぎ去ることがなく、この国は滅びることがない」(ダニエル7:13~14新改訳)と。
イエスは、そのダニエルが言う「人の子」、
天の雲に乗って来る、永遠の主権と光栄と国が与えられ、すべての者が仕える、
その「人の子」だと、名乗られるのですね。
ただし、今回は、仕えられるためではなく、仕えるために、
多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのだと。
イエスが生まれる1000年ほど前に書かれたダビデの詩。
その中には、
「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1新改訳)とあり、
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから」(同8)、
「私の力は、土器のかけらのようにかわききり、私の舌は、上あごにくっついています」(15)、
「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」(18)とあります。
そして、1000年ほど後のこと、午前9時頃、十字架に架かられたイエスは、午後の3時に、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれて息を引き取られたのだそうです(マルコ15:34)。
祭司長たちは、イエスをあざけって、
「今、十字架から降りてもらおうか。
そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。
もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。
『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイ27:41~43)と嘲笑したのだそうです。
イエスは、「わたしは渇く」と言われ(ヨハネ19:28)、
また、「兵士たちは、イエスを十字架につけると、
イエスの着物を取り、ひとりの兵士にひとつずつあたるように4分した。
また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしの物であった。
そこで彼らは互いに言った。
『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう』」(ヨハネ19:23~25)と。
そして、そのようにしたのだそうです。
1000年ほど前のダビデの言葉のとおりがイエスの身に起こったのですね。
天の神、主は、ご自分の民を悩みの炉で試し、純粋にし、鍛錬し、強くされるようです。
苦しめられ、途方にくれ、イエスの死をこの身に帯び、イエスのために絶えず死に渡されていますが、そのことによって、イエスのいのちが、この死ぬべき肉体において明らかに示されるようになるのだそうです。
主イエスを死者の中からよみがえらせた方は、私たちをもイエスとともによみがえらせ、ご自身の前に立たせてくださるのだそうですから(Ⅱコリント4:8~14)。
仕えられるためにではなく、仕えるために来て、
私たちを買い戻す身代金として、ご自身のいのちを献げてくださったイエスによって。
この新しい週も。
風も波も従わせる方が
常に、付け加えたり、減らしたりしている私たちを
この方を待ち望んで
「主こそ私の受ける分」と私の魂は言い、
私は主を待ち望む。哀歌3:24
キリストのお陰で、
今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。ロマ5:2
ヨハネ15:9~17
ルカ21:5~19(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/29;水)
滅びてしまうはずだったのだそうです。私たち人間は。
私たちの悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
これを思い出しては沈むばかり。
私たちが滅び失せなかったのは、天の神、主の恵みによることなのだそうです(哀歌3:19)。
自分の〔的外れ〕な生き方の行きつく先は滅びでしかなかったのだそうですが、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちを、なお、惜しみ、愛し、憐れんでくださったのだそうです。
それで、〔御子である神〕と呼ばれる方が、預言の言葉のとおりに、
天の栄光の座を後にして、
ダビデの子孫として生まれる、〔女の子孫〕として、
人間イエスとして人の世に来てくださり、
救い主、キリストとして、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちが神のもとに帰る道を開いてくださったのだそうですから。
私たちは、この、キリストであるイエスが自分のいのちを差し出して完了してくださった(ヨハネ19:30)手続きによって、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えする者ともしていただき、神の子の身分を与えていただけ、神の家族として、〔父である神〕と心を一つにする者にもなり、神の同労者と呼ばれる栄光をいただく者ともしていただけるのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕が、私たち一人一人を愛し、大事に思っていてくださる、その御思いが、私たちの心にも来て、私たちも、互いを大切に思い合う者ともしていただけ(ヨハネ15:9~17)、
口から出る言葉も、〔父である神〕が語ろうとしておられることを話す者ともしていただけるのだそうです(ルカ15:14~15)。
〔御霊〕を無限に与えられた(ヨハネ3:34)イエスが、
「わたしがわたし自身からは何事もせず、
だだ、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」と言われた(ヨハネ8:28)、そのように。
今日も。
イエスがしようと思うことを何でもしていく者に
しようと思うことは何でもしなさい。
神があなたと共におられるのです。サムエル記上10:7
何を話すにせよ、行うにせよ、
すべて主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイ書3:17
ヨブ記9:14~23
32~35 ルカ21:1~4(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/28;火)
イスラエルに王がなかったころ、
天の神、主は、民の中から士師を立ててさばきつかさとし、
士師は神に聞きながら民の問題を解決していました。
けれども、民は周りの国々のように王がいればと、
王制の弊害を説く預言者サムエルに、
「いや、どうしても、私たちの上に王がいなくてはなりません。
私たちも、ほかのすべての国民のようになり、
私たちの王が私たちをさばき、
王が私たちに先立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」と王を立てるよう迫ったのだそうです。
天の神、主は、サムエルに、
「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。
それはあなた(サムエル)を退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と言われ、サムエルを通して、イスラエル第1代目の王、サウルが立てられることになりました。
あなたはイスラエルの王となるというサムエルの言葉が信じられなくて、
「どうしてあなたはこのようなことを言われるのですか。
私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。
私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか」と答えるサウルにサムエルは言います。
「あなたが、ペリシテ人の守備隊のいる町、神のキブアに入るとき、高きところから降りてくる預言者の一団に出会います。
彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
このしるしがあなたに起こったら、手あたりしだいに何でもしなさい。
神があなたとともにおられるからです。」(サムエル8:1~10:7)と。
「しようと思うことは、手あたりしだい何でもしなさい」とは、〔ともにおられる神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる〔思うこと〕は、ということのようですね。
事実、サウロは、サムエルから「私が着くまで7日間、そこ(ギルガル)で待たなければなりません」と言われていたのですが(Ⅰサムエル10:8)、ペリシテ人が攻めて来て、サウロは、ギルガルで、7日間、待ったのですが、サムエルは来ず、民は逃げて行こうとするので、サウロはサムエルを待ちきれず、ついに、自分で全焼のいけにえと和解のいけにえを神にささげたのだそうです。
神のことばに従わず、自分の理性の判断に従って行動した、このことが、サウロが王位から退けられることにつながったのだそうですから(Ⅰサムエル13:5~15)。
私たちも、〔聖霊を受ける〕と、今までの律法の束縛から解放され、〔生まれた時からの私〕という私自身も生き生きとし、元気になり、今までの、人に気を配りながら、おずおずとではなくなるので、主の思われるとおりにではなく、自分の思いのとおりにして、人をけとばしていくことにもなりやすいようです。
しっかりと、〔生まれた時からの私〕は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとなっており、〔生まれた時からの私〕から来る思いは、死んだものから出て来ている思いであることを認めて、神の前に差し出し、お渡しし、〔聖である霊〕と呼ばれる方から心に来る〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる、その御思いについて行く生き方を理解しておかないといけないようです(ガラテヤ5:24~25)。
もし、王であれば、御思いのとおりに、手あたりしだい何でもしていいのでしょうが。
義人ヨブは、原因が自分には思いあたらない激しい苦しみの中にあって、神と自分との間を〔仲裁する者〕を望んだのだそうですが(ヨブ9:33)、
その仲裁者として、〔御子である神〕が人間イエスとなって人の世に来てくださり、
和解のいけにえとして、ご自身の身を十字架刑での処刑に差し出してくださって、
天の神、主と私たちすべての人間の仲裁をしてくださいました。
そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思ってくださっている御思いを置いてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。
あの、レプタ銅貨二つをささげたやもめも(ルカ21:1~4)、その、〔聖である霊〕によって心に置かれた御思いによって生きる人だったのでしょうか。
私たちも、イエスの御名によって、イエスの代理人として、それぞれの、心に置いていただく、イエスがしようと思われる御思いを、そのとおりにしていく生き方をさせていただけるのだそうです。
今日も。