風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自分自身と思っていてくださるのですね。私たちのことを

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。マタイ25:40(9/10の週の聖句)

 

 わが民は平和の住みか、
安らかな宿、
憂いなき休息の場所に住まう。
イザヤ書32:18

 どうか、平和の主ご自身が、
いついかなる場合にも、
あなたがたに平和をお与えくださるように。
主があなたがた一同と共におられるように。
Ⅱテサロニケ3:16

 ルカ10:25~37
 詩119:57~64(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/10;Ⅱ日)

 

 イエスは言います。
「人の子(イエスご自身のこと)が、栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、
人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。
彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、私の父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、
わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、
わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、
わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、
わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。
  ~~
まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらの私の兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、
わたしにしたのです』」(マタイ25:32~40新改訳)と。


また、イザヤを通しても言われます。

「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。
彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、
砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。
見る者は目を固く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。
気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。
もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。
  ~~
ついには、上から霊が私たちに注がれ、
荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。
公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。
義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。
わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む」(イザヤ32:1~18新改訳)と。


 私たちの身代わりとなって、私たちの「的外れ」の責任をとって十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、三日目に死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国に着いて語った後、
弟子たちの見ている前で、オリーブ山から、天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 

 そのイエスが、〔父である神〕の右の座からお遣わし下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方をお迎えし、この方によって心を一新していただき、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただく者は、
〔父である神〕の御思いを心に持つ者にしていただけて、
〔父である神」が、最も小さい、弱い者を心にかけておられその御思いが心に来て、弱い人を心にかけるようにしていただけるのだそうです。

 ユダヤ人と対立、反目し合うサマリヤ人が、旅の途中で通りかかった道で、
強盗に遭い、裸にされ、傷ついているユダヤ人を見かけ、
介抱し、宿に連れて行き、費用を自分で払って世話を頼んで出かけたように(ルカ10:25~37)、
弱っている人、困っている人の隣人になる思いにも。

 そして、詩篇の作者のように、私たちも言うのですね。
「主は私の受ける分です。
私は、あなたのことばを守ると申しました。
私は心と尽くして、あなたを請い求めます。
どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。
私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。
私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。
悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。
真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。
私は、あなたをおそれるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。
主よ。地はあなたの恵みに満ちています。
あなたのおきてを私に教えてください」(詩篇119:57~64)と。

 そして、互いに祝福し合うのですね。
「どうか、平和の神ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。
どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように」(Ⅱテサロニケ3:16~18)と。
この新しい週も。

 

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熱情と力強い御業、火を投じるために来られて

どうか天から見下ろし、
輝かしく聖なる宮からご覧下さい。
どこですか、
あなたの熱情と力強い御業は。
イザヤ書63:15

 イエスの言葉:
わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。
その火が燃えていたらと、どんなに願っている事か。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。
それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむ事だろう。
ルカ12:49~50

 イザヤ書57:15~19
 民数記20:1~13(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/9;土)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の熱情と力強い御業。
それは、この地上に火を投じ、
投じられた火が、冬枯れの野原を焼き尽くすように燃え上がること、のようですね。

 そして、火である、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られるためには、
〔御子である神〕、ご自身が、「女の子孫」(創世記3:15)として、人の世に生まれ、
すべての人の、すべてのそむきの責任をとって、十字架刑での処刑を受けられる、
その洗礼を〔御子である神〕ご自身が受けなければならなかったのだそうです。


 天の神、主はイザヤを通して言われます。
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方がこう仰せられる。

「わたしは、高く聖なるところに住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。
わたしから出る霊と、わたしが造った魂が衰え果てるから。
彼のむさぼりの罪のために、わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、
彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう」(イザヤ書57:15~19)と。

 

 その熱情のゆえに、〔御子である神〕であられる方が、人となって人の世に来られ、
自ら、すべての人の、すべてのそむきの責任を負って、
「神に反逆した者」として十字架刑での処刑を受けられ、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られる道を開き、
「火が燃えている」状態に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちの心のうちに〔父である神〕の御思いを置いて、
私たちのうちに〔父である神〕の御思いがあり、
また、私たちの思いを〔父である神〕に執り成し、
私たちが自分の思いのすべてを〔父である神〕に話していくようにしてくださって、
私たちの思いが〔父である神〕の中にあるようにしてくださり、
私たちが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と一つ心になるようにしてくださり(ヨハネ17:21~23)、
私たちも、〔父である神〕が私を通してしようと思っておられることをしていく者にしてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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今の、その心に成り切って、神に会っていただけるのだそうですから

アダムと彼の妻は、
主なる神の顔を避けて、隠れた。
創世記3:8

 心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。
マタイ5:8

 マタイ12:15~21
 民数記17:16~26(新改訳では17:1~11、通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/8;金)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方(出エジプト3:14)から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つである」(ヨハネ17:21~22)ものをと願われて造られた人間。

しかし、最初の人、アダムとエバは、与えられていた自由意思で、
その天の神、主との一つになっている場に留まることをせず、
自らが「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となって(創世記3:5:22)、
善悪の判断を、天の神、主と一つにしていくことを止め、
自分一人で、自分の理性の判断で、善悪を決めていく者になったのだそうです。

天の神、主と、思いを一つにしているときには、天の神、主の訪れは、心、ワクワクする、うれしいことだったのでしょうが、
自分一人で、善悪を判断するようになったとき、天の神、主が来られることは迷惑なことだったのでしょうね。

それで、天の神、主が、二人を捜して、エデンの園を歩き回られ、二人を呼ンでおられたとき、
二人は、その主の声を聞いて、主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠し、隠れたのだそうです。

そのとき以来、人間の心は分裂し、二心(ふたごころ)となっているようですね。
心の清い者、ピュア、心の単一な者、
二心ではなく、今の、その心になりきっている者は、神を見るのだそうですね。
あの、自分の胸をたたいて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った徴税人、取税人のように。

それで、イエスの弟のヤコブは言うのですね。
「二心の人たち。心を清く(ピュアに、単一に)しなさい」と。

そして、イエスの十字架刑での処刑を私の処刑としていただいて、処刑済みの者としていただき、
三日目に死人の中より復活し、天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスがお遣わし下さる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、〔父である神〕の御思いを心に置いていただき、
〔父である神〕と同じ思いを思い、一つの心にしていただいて、
はばかることなく、神に近づくことができる(ヘブル10:15~22)のだそうですから。
今日も。

 

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天の神、主の、深い憐みに依り頼んで

私たちが正しいからではなく、

あなたの深い憐みのゆえに、

伏して嘆願の祈りをささげます。ダニエル書9:18

 私たちは、
主イエスの恵みによって救われると信じているのです。
使徒15:11

 使徒9:31~35
 民数記14:26~38(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/6;水)

御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。
神に対してかたくなになりながら、
なお、無傷でいられようか。
ヨブ記9:4

 どのように受け、また聞いたかを思い起こして、
それを守り抜き、
かつ悔い改めよ。
黙示録3:8

ヤコブ書5:13~16
 民数記14:39~45(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/7;木)
 

パウロたちが、小アジア(今のトルコ)やヨーロッパ(マケドニアギリシャ)に、イエスによる救い、
十字架刑での処刑を受けられたイエスの死を自分の死としていただき、
三日目に墓より新しいからだに復活し、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただいて、
心が一新されて、新しく生まれて、
〔父である神〕と心を一つにして生きる者となる、
エスによる救いを宣べ伝えて行ったとき、
ユダヤからやって来た人々が、パウロたちが伝える、イエスによる救いを受け取る、もらうことだけでは足りない、
モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない、と教えたのだそうです。

それで、パウロバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じ、
パウロバルナバ、仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになったのだそうです(使徒15:1~2)。

 パリサイ(モーセをとおして与えられた神の律法を自分の力で守って神に義と認められようと、熱心に努力していたグループ)派の者で信者になった人々が、
「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張し、激しい論争になったのだそうですが、
ペテロが立ち上がり、
「兄弟たち。ご存知のとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、
異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、
彼らのためにあかしをし、
私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、
あの人たちもそうなのです」と語り、
反対者たちも沈黙し、バルナバパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けたのだそうです(使徒15:4~12新改訳)。


バビロンの捕囚の地で、ダニエルも神のあわれみにより頼んで嘆願したのだそうです。

「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。
あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みをくださる方。
私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行い、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。
私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。
主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、
また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。
これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。
主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。
あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。
これは私たちが神にそむいたからです。
私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、
神がそのしもべたちである預言者たちによって私たちに下さった律法に従って歩みませんでした。
イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れさり、御声に聞き従いませんでした。
そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが私たちの上にふりかかりました。
私たちが神に罪を犯したからです。
神は大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに告げられたみことばを、成就されたのです。
このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下しりましたが、
私たちは、不義から立ち返り、あなたの心理を悟れるよう、私たちの神、主にお願いもしませんでした。
 ~~
私の神よ。耳を傾けて聞いてください。
目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけれらている町をご覧ください。
私たちが御前に伏して願いをささげるのは、
私たちの正しい行いによるのではなく、、
あなたの大いなるあわれみによるのです」(ダニエル9:4~18新改訳)と。

私たち、自分の正しい行いを根拠にして神と語り合うことのできない者も、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のあわれみを足掛かりにして、嘆願の祈りをささげていってもいいのだそうです。

 

それで、主の弟のヤコブをとおしても勧めてくださっています。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。
喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
あなたがたのうちに病気の人がいますか。
その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。
また、もしその人が罪を犯していたら、その罪は赦されます。
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。
いやされるためです。
義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:13~16)と。

今日も。

 

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イエスを高く上げられたように、私たちにも、高く上げ、栄光の新しい名を与えようと

主よ、私たちの主よ。
あなたの御名は、いかに力強く、
全地に満ちていることでしょう。
詩8:2

 神はイエス・キリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
エスの御名にひざまずくのです。
フィリピ書2:9~10

 マルコ3:1~10(11~12)
 民数記14:1~25(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/5;火)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、力強い方。
この方の栄光は全地に満ちているのだそうです。

エスは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられた方なのだそうです。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで、
〔父である神〕の御思いに従われたのだそうです。
それゆえ、〔父である神〕は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのだそうです。
それで、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、〔父である神〕がほめたたえられるのだそうです。


エスは、安息日(週の最後の日、神が創造の業を終えられて休まれたのを記念して、この日を特別な日とし、神の民も休むようにと、何の仕事もしてはならないと命じられている日)に、会堂に入られたのだそうです。
そこに片手のなえた人がいたので、パリサイ人たち(バビロンの捕囚以降に起こった、神の律法を守ろうと熱心なグループ)は、イエス安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていたのだそうです。
エス安息日の戒めを破る者として訴えるために。
 そのような中で、イエスは、手のなえたその人に、「立って真ん中に出なさい」と言われ、
それから彼らに「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。
命を救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われると、
彼らは黙っていたのだそうです。
エスは怒って彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆きながら、
その人に、「手を伸ばしなさい」と言われ、
彼が手を伸ばすと、その手は元どおりになったのだそうです。
そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党(王制派、国粋主義者)の者たちといっしょになって、
エスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めたのだそうです。
エスの権威を認め、手を動くようにしてもらった人とともに喜び、神に感謝するのではなく。


 それから、イエスは弟子たちとともに湖(ガリラヤ湖)のほうに退かれたのだそうですが、
ガリラヤから、また、ユダヤエルサレム、イドマヤ(エドム)、ヨルダンの川向う(東側)やツロ、シドンあたりから、大勢の人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとに集まって来たのだそうです。
そして、多くの病気の人がいやされ、
汚れた霊どもは、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫んだのだそうです。
エスは、ご自身のことを知らせないように、厳しく彼らを戒められたのだそうですが(マルコ3:1~12)。


エジプトを脱出したイスラエルの民。
約束の地の目前のパランの荒野、カデシュまで来て、
モーセは、そこから12部族の族長12人を遣わし、その地を探らせたのだのだそうです。
彼らは、40日かかってその地を巡り、帰って来て、その地は、まことに乳と蜜の流れる良い地だと報告したのだそうです。

けれども、そのうちの10人は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちよりも強いから」と言いふらして民の心をくじいたのだそうです。
そこで、民は、モーセとアロンにつぶやいたのだそうです。
「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。
できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
なぜ神である主は、私たちをこの地に導いて、剣で倒そうとされるのか。
私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。
エジプトに帰ったほうが良くはないか」と。
そして互いに言ったのだそうです。
「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と。

すると、その地を探って来た者たちのうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、自分たちの着物を引き裂いて、イスラエルの全会衆に向かって、
「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。
あの地には、乳と蜜が流れている。
だた、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきになるからだ。
彼らの守りは、彼らから取り去られている。
しかし神である主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」と言ったのだそうです。

しかし全会衆は彼らを石で打ち殺そうと言い出したのだそうです。
そのとき、神である主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れ、主はモーセに仰せられたのだそうです。
「この民はいつまでわたしを侮るのか。
わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう」と。

モーセは主に申し上げたのだそうです。
「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、
この地の住民に告げましょう。
事実、彼らは、あなた、神である主がこの民のうちにおられ、
あなた、神である主が、まのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、
あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。
そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、
あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。
『神である主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、
彼らを荒野で殺したのだ』と。

どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。
あなたは次のように約束されました。
『主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎(とが)とそむきを赦すが、
罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。

 あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、
どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

 主は仰せられたのだそうです。
「わたしはあなたのことばのとおりに赦そう。
しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、
エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしとを見ながら、
このように10度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、
わたしが彼らの先祖に誓った地を見ることができない。
わたしを侮った者も、みなそれを見ることができない。
あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野に出発せよ」(民数記14:1~25新改訳)と。

このようなわけで、イスラエルの民は、約束の地を目前にしながら、
神の御思いについていくよりも、自分の理性による善悪の判断を先立て、自分の思うように行動したため、約束の地に入ることができず、
これから、40年、この時の成人の男子が死に絶えるまで、荒野での生活をすることになったのだそうです。


天の神、主の栄光は全地に満ちており、主は、言われたことはそのとおりを実行なさる方。
このパリサイ人やイスラエルの人たちのように、私たちも、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」者になっていて(創世記3:5、22)、
自分の理性による善悪の判断を先立て、神に逆らい対抗して、自分の思うとおりにしていく者ですが、
その私自身である、〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものとしていただき、
この、イエスの十字架刑での処刑をとおして私たちに来て下さる、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただき、
エスが従われたように、その御思いについていくとき、
私たちも〔父である神〕と思いを一つにし、
この方がなされる御わざの一端を担当していく者にもしていただけるのだそうです。
私をとおしても、しようと思っておられることがあるのだそうですから。
今日も。

 

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自由意思で、自分から進んで、自発的に、を喜ばれる方に

モーセを通じて主が行うようお命じになったすべての仕事のために、
進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、
随意の献げ物を主に携えて来た。出エジプト記35:29

 与えよ。そうすればあなた方にも与えられる。
押し入れ、ゆすり入れ溢れるほどに懐に入れてもらえる。
あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。
ルカ6:38

 マタイ9:27~34
 民数記13:1~3、17~33(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/4;月)

使徒パウロは、弟子のピレモンに書き送っています。
「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、
  ~~
あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。
それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、
自発的でなければいけないからです」(ピレモン書8、14)と。

エジプトを脱出したイスラエルの民は45日ほどかかって、シナイ山のふもとに着き、宿営したのだそうです(出エジプト19:1~2)。
そして、その山で、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のおことばを聞き、
「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答えて(19:8、24:2、7)、
神の民となる契約を結んだのだそうです。

そして、主が示されたとおりに、「会見の天幕」を建設するのですが、
感動した者と、心から進んでする者とはみな、
会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、
主への奉納物を、自発的に持って来たのだそうです。

エスは仰るのですね。「与えなさい。そうすれば与えられます。
自分で量った秤で量り返されるから」と。

ガリラヤ地方でのこと、イエスが、会堂管理者の家に行き、死んだ娘を生き返らせたあと、
道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、
ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来たのだそうです。
家に入られると、その盲人たちが御許にやって来たので、
「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言ったので、
エスは彼らの目にさわって「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われたのだそうです。
すると、彼らは見えるようになったのだそうです。
エスは彼らをきびしく戒めて、
「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と言われたのですが、
彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言い広めた(新共同訳)のだそうです。
見えるようにしてもらった喜びと感謝で、言わないではいられなかった、のでしょうね。

けれども、イエスに反対する人たちは、これらのイエスのなされることを「悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言ったのだそうです(マタイ9:27~34)。

エジプトを出て、パランの荒野に着いたイスラエルの民に、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、モーセに告げて仰せられたのだそうです。
「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。
父祖の部族ごとに一人ずつ、みな、その族長でなければならない」と。

 40日かかって、その地を偵察してきた族長12人は、カデシュにいる民のところに帰って来て、
エシュコルの谷で切り取り、二人が棒でかついで来た一ふさのぶどうやざくろやいちじくを見せ、
「そこはまことに乳と蜜が流れています。これがそこの果物です。
しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、
そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、
海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます」と報告し、
そのうちの10人は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」と言って民の心をくじいたのだそうす。
それで、民は、「さあ、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう」と言い出したのだそうです(民数記13:1~3、17~14:4)。

このように、〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちの心に〔父である神〕の御思いを置き、感じさせてくださる時、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、私たち自身、〔生まれた時からの私〕という霊は、自分の理性による善悪の判断を神の御思いよりも先立てて、神に従おうとしないもの、のようです。

だから、その、私自身、〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方の導きについて行こうと勧められているのですね(ガラテヤ5:24~25)。
私たちの自由意思で、自発的に、自分から進んで。
今日も。

 

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折れかけている葦を折ることなく、消えかかっている燈心を消すこともなさらない方が

彼は傷ついた葦を折ることなく、
暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ書42:3(9/3の週の聖句)

 彼らは神の律法の書を翻訳し、
意味を明らかにしながら読み上げたので、
人々はその朗読を理解した。
ネヘミヤ記8:8

 パウロは、自分の借りた家に丸2年間住んで、
訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、
イエス・キリストについて教え続けた。
使徒28:30~31

 マルコ7:31~37
 詩119:49~56(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句9/3;Ⅰ日)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、イザヤを通して言われます。

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、その教えを待ち望む」(イザヤ42:1~4新改訳)と。

この方は、柔和で、忍耐深い、寛容な方。
折れかけている葦を折ってしまうようなこともなさらず、
消えかかって暗くなっている燈心を消してしまうこともされない方なのだそうです。
〔神のことば〕として来られたこの方を、島々も、地の果ての人も待ち望むのだそうです。

神のことばを聞こうとせず、自分の理性の判断に従って、善しと思うところを成し、
ついに、バビロンの捕囚とされたユダ、イスラエルの人々。
70年の時が過ぎ、解放の時が来て、
バビロンに替わったペルシャのクロス王によってエルサレムへの帰還が許され、
周囲の国々から妨害される困難の中で神殿が再建され、
また、ネヘミヤの指導によって城壁が再建されたのですね。
人々は自分たちの町々にいたのだそうですが、
第七の月に、いっせいにエルサレムに集まり、水の門の広場で、
律法の書(創世記~申命記)を聞くことを願ったのだそうです。
そこで、エズラをはじめ、レビ人たちが、律法の書を朗読し、解き明かしたので、
民はこれを理解したのだそうです。

神の律法を自分の力で行うことによってではなく、イエス・キリストによって義とされることを地中海世界に伝えていたパウロ
そのことで、エルサレムで、律法を自分の力で行って神の前に義とされようと熱心な同族ユダヤ人から「この男は生かしておくべきではない」と殺されそうになり、
ローマ軍によって捕らえられ、ローマ皇帝カイザルの法廷で裁かれるため、囚人としてローマに護送されたのですが、
この時は、牢獄ではなく、自費で自分の家を借りることを許され、
丸2年の間、まったく自由に、何の妨げもなく、尋ねてくる人にイエスによる救いを伝えることができたのだそうです。
それで、番兵として来ていた皇帝の親衛隊全員にも、
また、裁判を通して皇帝の側近にもイエスのことが伝わったのだそうです。

ガリラヤ湖のデカポリス地方でのこと、
エスは、人々が、耳が聞こえず、口がきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願ったので、
その人だけを群衆の中から連れ出し、
その両耳に指を差し入れ、それからつばきを出して、その人の舌にさわられ、
天を見上げ、深く嘆息して、
その人に「エパタ(開け)」と言われたのだそうです。
すると彼の耳が開き、舌のもつれがすぐに解け、はっきり話せるようになったのだそうです。
エスは、このことをだれにも言ってはならないと命じられたのですが、
彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらしたのだそうです。

このようにして、ユダヤ地方で起こったイエスの出来事は、
言いふらされ、地の果てにまで伝えられて来たのだそうです。

 

 そして、私たちの人生の旅の家でも、私の歌となり、
夜には、天の神、主の御名を思い出す(詩篇119:54~55)出来事となっているのですね。
今日も。

 

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